歌の翼に(1)
ウィリアムはゆっくりと身を起こして、のどかな平野を見渡した。
網目のように広がる運河が、太陽を反射させて輝いている。オランダに特有の、空ばかり見える平らな風景。点在する集落。そのひとつから、こちらへ向かって田舎道が伸びていて、黄色い風船がふわふわと近づいて来る。
風船の糸をもてあそびながら、サスキアはもうずいぶん前からウィリアムを見つけているようで、特に急ぐ様子もなく、のんびりと歩いていた。
「子供たちは楽しんでる?」
ウィリアムが声をかけると、サスキアは笑顔だけでこちらへうなずき、ウィリアムと目を合わせたまま、もう数歩だけ黙って歩いた。
「戦争が終わって始めてのお祭りだもの。みんな興奮して大変」
ほがらかに言ったサスキアは、自分も頬をピンク色に染めている。ウィリアムが座っている木の根の先をぽんと飛び越え、隣に腰を下ろそうと身をかがめた。
「サスキア、ローマに行こう」
サスキアはぽかんとしたままゆっくりと腰を落とし、ウィリアムを見つめた。
「だって、お金が……」
ウィリアムは、手に持った手紙をひらひらと振ってみせた。
「ロンドンの弁護士さんが何て?」
「それがね、なんだか知らないがブロアの家の昔の書類が高く売れそうだって言うんだ」
「昔の書類?」
「古い文書か何かのコレクターに見せたら、ぜひ競売にかけるべきだって言われたらしい」
サスキアはじっとウィリアムを見つめた。
「いいの? 売ってしまって」
「もちろんさ。孤児院の経営は軌道に乗ったけど、税金も物価も高いし、まだまだイタリアまでの旅費なんて」
「でも、あなたの家族の、大切な思い出じゃ……」
ウィリアムは小さく首を振ってさえぎった。
「僕の家族はこのオランダにいるよ。愛する君と、院の子供たち、オスターデの父さんと母さん」
「だったら、あなたの家族だって、私の家族よ」
サスキアがつぶやくと、ウィリアムはやわらかく微笑んだ。
「なら君のために書類を売るくらい、彼らも許してくれるよ。遺産で孤児院なんて始めてしまったから、君には思ったより貧乏させることになって」
「そんなこと!」
サスキアはぐいと頭をそびやかせた。
「街の人もみんな感謝してるわ。戦争が終わっても生活は苦しくて、親をなくした子を引き取ってやれる余裕なんて、誰にもなかったもの」
風船の糸をからませたままの指で、ウィリアムの髪に触れる。
「私は充分幸せだから、思い出も大切にしてあげて」
ウィリアムは手紙に目を落とした。
「内容の写しは取っておいてくれるそうだから大丈夫。せっかく頑張って金策を考えてくれたんだ。彼ら……」
便箋のヘッドプリントの、弁護士事務所の飾り文字をパチンと指ではじく。
「セイロンのプランテーションを売りに出した時のことで、まだ責任を感じてくれてるんだよ。農園も管理屋敷も、やり手の事業家に二束三文で買い叩かれてしまって」
陽気に言ったウィリアムとは反対に、サスキアは表情を曇らせた。
「専門家からは売る時期じゃないって止められたのに、無理に売却処分させたのよね。こっちで私と暮らすために」
「違うよ」
ウィリアムはサスキアの手の先から糸をたぐり、風船をとんとんと揺らした。
「イギリスでの暮らしは、植民地とのつながりも、みんな捨ててしまいたかったんだ。そりゃ、家族との思い出は……忘れていないさ」
ウィリアムはまた手紙に目をやった。
『……当該書類でございますが、古文書と申しましても、最近事務所に配達されたもので、先日ご報告した例の遅配郵便でございます。お父さまサー・ローレンスがお使いだった封筒のためか、セイロンの管理屋敷の住所へ差し戻されたらしく、屋敷の現在の所有者に問い合わせたところ、差出人に心当たりがないのでとにかく加算切手を貼って投函し直した、とのことでございました』