「ウージー」
つぶやいたまま、エストブは気が抜けたように立ち尽くしていた。
「エストブ」
目の前の草地にはウージーが立っていて、片手になぜか待ち針を一本握り締めている。まだしつけ糸の残る衣装のスソが、素足にひらひらとまとわりついて揺れた。
「あの」
お互いに目を合わせたまま、どちらがしゃべり出すか決めかねていると、
「ちょっとウージー!」
背後の荷馬車から、草地のはずれに立つ二人に向けて声が上がった。
「サボってるヒマないのよ!」
「待ち針が足りないわ! あんた持ってった?」
「すぐ行くわよ!」
ウージーが怒鳴り返す。
「……お城の用事だったら後回しにできないでしょ!」
言い訳のように付け足してエストブに向き直り、ね? と小さく首をかしげた。
「ごめん、忙しそうだ」
「ううん、ちっとも」
ウージーは何でもなさそうに首を振ったが、
「ウージー! あんたのスソ丈が決まんないと群舞の衣装にかかれないのよ!」
「もう!」
仲間の声に、またかみつくように振り返る。
「少し待って! 先に胴着を仕上げといてよ!」
大声のやり取りを聞きながら、エストブは幸せと驚きが入り混じった複雑な表情で目を輝かせていた。ウージーが不思議そうに見上げる。
「それで、何?」
「うん、いや」
もう用事は済んだとも言えず、エストブはもごもごと言葉を探した。
「君の書いた手紙が……」
「手紙?」
「そう、ヤールシュに聞いたんだ。彼に手紙を書いたんだって?」
「あ、そうよ。でも大した内容じゃないの」
「うん、聞いたよ。私と仲直りしろって」
「あんなケンカを毎日してるなんて知らなかったから。心配して損したわ」
くすくすと笑うウージーに見とれながら、エストブは半歩ほど足を踏み出した。
「これからは、ああいうことは私に言ってくれないか」
「あ、ごめん、なさい」
ウージーはビクリと凍りつき、弱々しくつぶやいた。
「やっぱりお付きの人を通すべきよね、あたしみたいな下々の者が……」
ウージーから笑顔が消え、エストブはおろおろと続けた。
「違うんだ。ヤールシュって略称の表書きを国王陛下に見とがめられて、あいつ、怒られてしまったから」
「ええっ! 王さまが、あの手紙を」
ウージーはますます縮こまってしまう。
「あたし、お説教みたいな失礼なこと書いて……どうしよう」
「大丈夫、中身までは読んでおられないよ。息子宛てとは言え、手紙を盗み見るようなかたじゃない」
エストブが言うと、ウージーは大きくため息をついて胸をなでおろしたが、
「それでも、なんて馴れ馴れしい娘だって思われたでしょうね。王子さまに直接手紙を渡すなんて」
不安げにつぶやいた。
「そう、だから……」
エストブがもう半歩近づく。
「なんでヤールシュに宛てて書いたんだ? 決闘に手心を加えろとでも何でも、私に言ってくれればいいのに」
ウージーはわずかに体をのけぞらせながらあとずさった。
「だって、意地になってるのはどう見たってヤールシュのほうだったし、それにあたし、文章って声に出さないと書けないから、誰かに聞かれてもヤールシュ宛てなら大丈夫……」
そこで言葉に詰まったまま、ウージーは黙り込んでしまった。
「え? あの……」
聞きとがめたエストブに、何か言って取り繕わねばと、ウージーはさかんに目を泳がせた。が、一秒、また一秒と降り積もる沈黙を、押し返す方法が見つからない。
ウージーの困惑に巻き込まれたようにエストブも口ごもり、お互いに、言葉を探して何度か息を吸い込んだが、結局そのつど吐き出した。
「私宛てだったら?」
ようやく言って、エストブはおずおずと視線をさぐった。
「人に聞かれちゃ困るようなことを書いてくれた?」
「な……何よそれ。からかってるつもり?」
ウージーは声を高ぶらせ、足元をにらんだままぐいと体をそむけた。
「そんなんじゃ」
「用ってそれだけ? だったらもう帰って……」
神経質に両手をよじり合わせようとした途端、
「いたっ」
ウージーは片手を跳ねあげ、身をすくませた。
「は、針持ってるの忘れてた」
「刺したのか? 見せて」
「ちょっとかすっただけだってば」
しなやかな手指は、引き寄せて間近に見てみると、小さな傷やささくれであちこち荒れている。ウージーは困ったように振りほどこうとしたが、エストブはつかんだまま離さなかった。
たった今針が引っ掛けていった指先の、血の気の引いた白いかき傷から、見る間に血のしずくがふくらんでいく。エストブは吸い寄せられるように唇を押し当てた。
「君が好きだ」
目を伏せたままつぶやいて、小さな手を押し戻す。
「それだけ。舞台がんばって」
ウージーは立ち尽くしたまま、エストブのマントがひるがえって、木立のあいだに消えるのを見送った。
「ウージー! 待ち針!」
とぼとぼと戻ってきたウージーを、山のような衣装でごったがえす荷馬車から、仲間がせかした。
「何だったの? 手にキスなんかされて」
「ダンスでも申し込まれた?」
「やったじゃない。公演のあとにパーティでも催してくださるのかしら」
踊り手たちは、口と同じくらい忙しく手を動かし続けている。ウージーは、草地に並べたテーブルで書き物をしている父親に近づいた。
「父さん、エストブがあたしを好きだって」
「そいつはいい」
マルテクは写本の上にかがみこんだまま、陽気に言った。
「宮廷に固定ファンがつきゃあ、ウチの格も上がるってもんだ」
手帳のページをせかせかとめくりながら、マルテクはまた作業に没頭しはじめた。
「ファンって」
ウージーはぽかんとして立ち尽くし、じっと指先を見つめた。
「そういう意味だったのかな……」
うっすらとにじんでいた血はもう止まっていたが、ウージーは指先に触れないよう気をつけながら、片手をもう一方の手で包み込むと、かきいだくようにそっと胸元に押し付けた。
番外編・サテンドール■おわり