夢のおわり(7)
抱きしめられながら、トビーはアリスの首に顔をうずめた。
「困るなあ。ボク、あんまりあっちの言葉が分からなかったよ」
アリスは小さな子をあやすように、少年の体を揺らした。
「そうね。あなたはずっと通訳のいらない夢の中で、こっちの言葉を話していたんだものね。眠る前はいくつだったの?」
「五歳」
「そう……」
バスで見た幸せな親子の姿がよみがえって、アリスの胸を刺した。
「すぐにあっちの言葉も覚えるわ。あっちの世界の楽しい事を、たくさん覚えていくために、夢の記憶を少しずつ失っていくんですって。寂しいけど、きっとこれからは」
声をはげましながら腕をゆるめて顔をのぞきこんだとき、トビーがぽつりと言った。
「ボクね、サッカー選手にはなれなくなったよ」
「こっちの足がね……ここまでしかなかった」
トビーは細い指で自分の膝を押さえてみせた。
「なんて……トビー」
アリスは言葉を失いながら、トビーの頬を手で覆う。
「ビックリして泣いちゃったよ。あんまり泣いたから、少し眠って休憩するようにって、お医者さんが眠る注射をしてくれた。好きな場所の夢を見るんだよって」
「それで、戻ってきてくれたのね……嬉しいわ、また会えて」
声をつまらせながらアリスはようやくそれだけ言った。王さまがそっと肩に手を置く。
「アリス、泣かないで。ここでは泣いたら皆そう言うでしょう」
トビーは大人が言い聞かせるような口調で言い、アリスの髪をなでてとかした。
「トビーにアリスの話をしたんですよ」
猫が近づいて言った。
「アリスの乗った船が境い目を越えられたのは、トビーの夢のおかげだって。考えられないくらいわずかな確率をとらえてアリスがこっちへ来れたのも、トビーがずっと夢を見続けて、空をつないでいてくれたからなんです」
嗚咽に喉をふさがれているアリスの隣に、猫がしゃがみこんだ。ヒゲをぴくぴくさせると、トビーは手を伸ばして、手のひらをヒゲの先につつかせる。
「そのうえ、もしトビーが気まぐれを起こして、うんと未来へ遊びに行っていたら……アリスがたどりつくこっちの世界は、陛下の治世が終わったずっとあとだったかもしれない」
「ああ、トビー」
アリスは小さな肩を包む両手に力をこめ、王さまを振り返って唇を震わせた。
トビーは誇らしげに頬を染めた。
「あんまり遠くへ飛ばないでねって、お城の皆に注意されたんだ。たいむぱらどっくすが出るよって」
「あ、たいむぱらどっくす!」
アリスはうなずきながら泣き声をはずませた。
「それ、私も、私も昔、侍従さんたちに言われたわ。別の時間に行って、私と話してる猫さんの後ろからワッて飛び出してやろうかなって言ったら」
「悪ガキばっかりだ……」
猫がため息をつく。
アリスは指で何度も涙をぬぐった。
「タイムパラドックスのことだったんだ。ここの皆はSFの知識もあるのね」
猫はニコニコと首を振った。
「誰もちゃんと説明できないんですがね。時間を軽々しく扱わないよう戒めるには都合がよくて。怪獣たいむぱらどっくすは」
(サスキア)
(サスキア)
アリスは確信とともに心でその名を響かせた。
中天にあった日はゆっくりと傾き、西の空から庭園を、王国じゅうを照らしている。
あたたかな陽射しは、かつてサスキアが胸に刻んだ東の山脈にも届いて、稜線のしたの木々の緑や、草地の影、岩場の顔立ちを、優しく包んでいた。