夢のおわり(5)
アリスは庭園のあずまやで、石のベンチに座り込んでいた。
涙がぽたぽたと落ちてフライトスーツの膝を染める。
草を踏む足音が、ゆっくりと近づいた。
「あの子、名前は?」
「トビー」
あずまやの石段の下で、王さまが答えた。
「知らない人に名前を教えちゃいけないんだと言ってね、ずいぶん経ってからようやく教えてくれた」
「そう。お母さんの言いつけをちゃんと守ったのね」
アリスが顔をあげると、柱にもたれて静かに見守る王さまの姿があった。
「私たちは……悲観しているのではないんだ。もしあの子が無事で、また夢を見てくれたとき、ここに戻って来たいと念じてくれるよう、せいいっぱい楽しく過ごさせてやりたいんだ。それが、何の消息も得られず待つだけの私たちにできる、唯一のことなのだよ」
アリスは深くうなずいて、王さまを見つめた。
「私、まだちゃんと答えていないわね。もちろん“喜んでお受けします”よ。決まってるわ。私にはもう帰る場所がないのだし、あ」
アリスは小さく息を飲み、また下を向いた。
「……ごめんなさい」
王さまは静かな笑みを浮かべ、意を決したように小さく息を吐いた。
「アリス、帰る方法ならまだあるかも知れない。猫に聞いたのだが、君の乗ってきた船は、次に誰かの夢が訪れるまでは、【境い目の空】に引っかかったままでいるはずらしい。だからそれに乗って行けば、空を逆戻りできるかも」
アリスはのろのろと顔をあげた。
「猫さんに、そんなことを聞いてくれたの? やっと会えたのに……」
王さまは何も言わず、ほんのわずか肩をすくめた。
「あなたは私がいなくなっても別にいいんだ」
「アリス」
「……また謝らなきゃ。ごめんなさい。本当に」
アリスを見つめながら、王さまは苦しげに首を横に振った。
「私には……こんなありがたいことはない。君がここを去ることを選んだとしても、ちゃんとお別れを言えるからね。何の前ぶれもなく、目の前でかき消えてしまわれるほど辛いことはなかった。ずっと」
アリスは石段を駆け下りて王さまを抱きしめた。
「では選ぶわ。他のどこより、あなたのいるこの悲しい国を」
庭園の起伏をやわらかく風がなでていく。王さまは草の上に座ってあずまやの基礎石にもたれていた。
「君のご両親はさぞ……辛い思いをされるだろうね。以前の私のように」
腕のなかのアリスにささやく。
「パパとママは」
アリスは、ほどいた髪を王さまの胸にもたせかけていた。
「私が気象調査艇に乗るって決めたときから、いざというときの覚悟はいつでも持っておくからって言ってたわ。上空でエンジンを切って風に任せるような、曲芸みたいなことをするからね。言い残して後悔したくないからって、うるさいくらい毎日、愛してるって言ってくれた。大げさなって思ってたけど」
王さまはふっと息を吐いた。
「強い人たちだ。私は……いつまた君を突然失うのかと思うと怖くて、ずっと言うまいとしていたよ」
アリスの頬をさぐりながらじっと見つめる。
「着替えを借りてきたいな」
アリスは居心地悪そうに視線を落とし、王さまの腕のなかで身をよじった。
「急に自分の格好が恥ずかしくなってきちゃった」
王さまは、フライトスーツのごわごわした衿に手をすべらせた。
「よく似合ってる。颯爽としていて君にぴったりだ」
アリスはもじもじと袖をひっぱった。
「晴れの日なのに。ダメよこんなの、ちゃんとしなきゃ」
「ちゃんと……。膝まずいている私を後回しにした人の言うことだろうか」
眉を寄せ、アリスをまじまじと見つめる。
「あの、ごめんなさい」
「こんなに思っているのに報われない」
笑いながらアリスをもう一度抱きしめて、王さまは深く息をついた。
「家臣たちを集めて申し込みのやり直しと結婚の布告をせねばならないのだが……もう少しだけこうしていてくれ」
「そういえば」
アリスは顔を上げ、王さまの額に自分の額をやさしく押しつけた。
「私ほど薄情な恋人はいないわ。どうしてか分かる?」
王さまはただ首を横に振った。
「私、あなたの名前を知らないのよ。そんな婚約者ってあるかしら?」
おどけて言ったアリスの唇に、王さまは人差し指をあてた。素早くあたりを見回す。
「よく見ているんだよ」
今度は自分の唇を指さし、顔を近づける。
「一度しか言わない。繰り返してもだめだ。いいね」
深刻な様子に気おされて、アリスも無言でうなずいた。王さまはほとんど息を吐かないほどにまで声をひそめて、言った。
「ヤールシタ 」
「素敵な響きよ、どうして内緒なの……」
アリスも小声で話す。王さまは笑って声を普通のトーンに戻した。
「即位したら、王はそれまでの名を捨てるんだ。在位中は今上陛下と呼ばれ、死後治世に応じた名を送られる。玉座についたら、もう王冠を授かるまえの自分でいてはいけないんだ」
「そう……王者の責務なのね」
「だがここの者はみな、私の即位まえの名は知っている。口に出して呼ばないだけでね。私が以前そういう名を持つ存在だったことは、君にも知っていてほしい」
アリスはしばらく王さまを見つめ、うなずいた。
「分かったわ。あなたを呼ぶときは、頭の中でその名を考えながら、ただ愛しいひとって呼ぶわ」
「それはいいな……玉座から走っていってキスしたくなる」
王さまは実際にそうした。
「そうだ、どうしてアルファベットを読めたの?」
唇が離れるとアリスはふとつぶやき、手で胸のワッペンを押さえた。
「君のキスは雑念が多いな」
「だって……どうして?ここの文字とは全然違うのに」
王さまはひょいと眉を上げた。
「異国からのお客人が、折にふれ教えていってくれるんだよ。話のなかにあれこれ出てくるからね」
「でも、ここに来るのは子供ばかりなんでしょう?」
「ああ。しかし、あるふぁべっとくらいトビーでも言えるよ」
アリスは王さまを優しく見つめた。
「いいのよ、ぼかしてくれなくても。サスキアが教えてくれたのね」
王さまはこくりとうなずいた。
「大部分は」
「私を見て、サスキアって言ったわね。初めて会ったときも、さっきも」
王さまはハッと息を飲んだ。
「聞こえてしまったか。だが私はアリスとしての君を……」
「いいの」
アリスは首を横に振ってさえぎり、背筋を伸ばして王さまを見つめた。
「私ももう今までの、あっちから来たお客さんのアリスじゃないわ。アリスでもサスキアでもない、今あなたの目の前にいるそのままの、金髪で青い目の、みすぼらしい野良着すがたの私を」
王さまはぷっとふき出した。
「猫さんがこう言ったのよ」
「あやつ……正直者め。おっと」
庭園を渡る風に乗って、恋人たちの笑い声が運ばれていった。