夢の歌
  
夢のおわり(3)
「あ! あの悪ガキだ!」
 猫が叫ぶと、雲の中から明るいくしゃくしゃの巻き毛がひょこりとのぞき、すぐに引っ込んだ。猫はヒゲを両手でおさえてかばいながら、ぶつぶつとつぶやいた。
「そうか、あの子の夢であっちとこっちがつながっていたのなら……確かにあなたは本物のアリス。一体、一体何に乗ってやってきたんです?」
 猫はアリスの背後を仰ぎ、猫目の虹彩をめいっぱい広げた。流線型の基幹部と、その何倍もの長さをした細身の翼が、雲の中にすらりと伸びている。


「宇宙ステーションと地上を、長い長いエレベーターチューブでつなぐプロジェクトがあってね、建造作業のネックは風でね、私は低空域に突発的に発生する風の気象データ収集をね……そんなことより!」
 アリスは猫の両肩にしがみついた。
「ねえ、今は何年? 王さまはどうしてるの? もう……お后を迎えた?」
「いいえ、まだですよ。陛下の治世は今年で十二年です」
「そう……!」
 かすれたため息をついたアリスを、猫はまだ信じられない表情で見つめながら、逃げないようにしっかりと支えた。
「とりあえずお城へ行きましょう。そんな野良着で入れてもらえるかなあ。そら、キミもおいで坊主!」
 猫が声をかけると、雲の中から巻き毛の男の子が飛び出した。白いハトを大事そうに抱えて、トコトコついて来る。
 猫は浮かんだままのアリスを、空で回収した風船のように、引っ張って運び始めた。
「野良着って……夢で来るときはいつもパジャマだったじゃないの。ねえ」
 アリスは引き回されながら、白い薄物を一枚引っ掛けたきりの男の子に話しかけた。
「あれ? あなたどこかで……
 首をかしげるアリスに、男の子はそばかすだらけの顔でにこりと笑いかけた。


■■■

「陛下はただいま、星図の間にて執務中であらせられ」
「大至急と言ってるでしょ! しゃー!」
 猫は首すじからシッポの先まで毛をふくらませながら、若い侍従に詰め寄った。
「まずお取り次ぎして、お目通りのお許しをいただいたのち」
「大至急! 夢ではない本物が! まるごと現れたと陛下に!」
 立ちはだかる侍従に向って、猫がヤケのようにわめき立てていると、
「あれは猫か」
 回廊のむこうから、王さまの声が響いた。
「いつもにも増して、言っておる意味がわからぬ」


「王さま!」
 アリスは侍従の脇をすり抜けて回廊を走った。雲の上から地上に降りると、浮かんでいた体は重さを取り戻していた。足がしっかりと地面を蹴っていく。アリスは大理石の柱をつかんで回廊の角を飛ぶように曲がると、まっしぐらに王さまの首に飛びついた。王さまは勢いに押されて大きくよろめきながら、
「サス……アリス」
 自分でもよく分からないまま、抱きしめる腕に力をこめた。


「私よ、とうとう来たのよ」
「陛下、アリスは夢ではなくて、まるごとこっちに来てしまいました」
 アリスと猫が同時にしゃべり続けるなか、侍従や家臣たちも成長したアリスの顔を認めてどよめいている。
「会いたかったわ、ずっと忘れていたけど」
「ひどい愛の告白だ」
 お互いに涙をにじませながら、どうしようもなく笑いくずれながら、王さまとアリスはしっかりと抱き合った。


「さて」
 王さまが片膝を折って床に膝まずくと、マントが大きく広がった。アリスはフライトスーツのまま立ち尽くしている。
「信仰王の息子にして、キューダンソーとイデラの王たる我は、今日王城において、金色の髪と矢車菊の目、まとえる衣の縫い取りに……
 王さまは差し伸べた手を空中にさまよわせたまま、伸び上がってアリスの胸のあたりをじろじろと見た。
……縫い取りに、異国の文字にて“ナーサ”としるす汝に、結婚を申し込む」
「私、私はアリスよ!」
 アリスはフライトスーツの「NASA」のワッペンをあたふたと引っ張った。
「これは名前じゃないったら」


 王さまは口元をほころばせた。
「いや、しきたりなんだよ。証人の前では、相手の姿かたちだけを述べてみせるのだ。間違いなくその場にいた者に申し込んだ、という事実を明らかにしておくためにね。古来から、代理の申し込みが結婚無効の言い訳に使われたりして、いろんなややこしい訴訟や……アリス、それより答えは?」
 王さまは差し伸べていた手をいったん下ろし、大げさに呆れてみせた。はにかんだ笑みを返して、アリスはぎこちなく口をひらいたが、
「ナーサって……そうか!」
 アリスは弾かれたように振り返り、人垣のなかに、さっきの巻き毛の男の子の姿を探した。
「バスで会ったあの子! あなた、この場面を見てたのね! ……え? でも」
 男の子のあどけない顔を見つめ、首をかしげる。
「今日のこの場面を見たあなたが、このあとあっちで目を覚まして、高校生の私に夢の話をする? なんだかおかしくない?」
「いえいえ、アリス」
 家臣団のうしろの見えない場所から、猫の声が言った。
「この子の夢は大人になったあなたを運んできたんだから、この子がいるのは大人になったあなたの今日ですよ。ああややこしい」


「だけど、バスでこの子が“ナーサ”の名前を聞かせてくれたのは、私がまだ高校生のころよ。もう、ええと七年も前なのに……どうしてあなたは小さいままなの?」
 アリスは人垣のはずれにいる男の子に歩み寄った。
 王さまが困ったように片手を振る。
「アリス、私は床に膝をついたままなのだが」
「ちょっと待って。おかしいのよ。ねえ、どういうこと、猫さん?」
 きょろきょろと人々を見回し、猫の声がしたほうに向かって伸び上がる。
「アリス、陛下がお待ちですから」
 猫はおろおろしながら顔を出した。
「よい。猫、なにか知らぬがアリスの不安を取り去ってやってくれ」
 王さまはせいいっぱい威厳を保ちながら立ち上がった。
「ただし手短にせよ」
 猫は王さまを気の毒そうに横目で見ながら、男の子を手招きして引き寄せた。
(アリス23歳・国王30歳・巻き毛の男の子5歳)
宇宙ステーションと地上を結ぶエレベーターは、アーサー・C・クラークの「楽園の泉」に出てきます。超高層域での建造シーンは圧巻。こんなきれいな惑星になら落ちてもいい…みたいな恍惚だす^^