夢のおわり(2)
ガタ! ガタ! ガタガタガタ……!!
激しい揺れが収まると、いつのまにかあたりは無音の白い世界に包まれていた。
「あ、なつかしい」
アリスはぐったりとシートにもたれたままつぶやいた。小さな船窓のむこうには、はるかに雲海が広がっている。
「なつかしいってなによ……どこよココ……ダメだ、ひとりごとが止まらない。パニック起こしかけてるな」
アリスはぶるぶると首を振ってシートに起き直ると、通信機のスイッチをさぐった。
「こちら58-A02、乱気流は収束。本部、応答願います。こちら58セカンドアシスト機。現在位置はええと、境い目の空……」
口をついて出た言葉に、アリスは大きくあえいだ。
「そうよ。ここは境い目の空、子供のころによく夢みた……なつかしい」
またたくまに押し寄せた夢の記憶に圧倒される。アリスは何の警戒もなく、ハッチの開閉ロックを引いた。
「夢を見ちゃってるってことは……やあだ、私ってば乱気流で頭でも打って寝てしまってるのかしら」
危機的状況にもあまり動じず、アリスは機体の上に立ちあがってあたりを見回した。
「わあ、やっぱり風船が浮いてる……違う、ぼよぼよだ。ふふ」
勝手知ったる、と気軽な一歩を踏み出した足はしかし、そのまま雲を突き抜けた。
「きゃあ!」
まっさかさまに落ちていく錯覚は一瞬で、アリスはふわふわと浮かんだままだった。しかし姿勢を保とうと伸ばす手は、まさに雲をつかむがごとく、すい、すい、と空を切る。
「どういうこと? 子供の頃は雲の上を、タッタカ足音がするくらいしっかり歩けたのに……!」
四肢をじたばたさせながら、ようやく届いた整備口のへこみに指を引っ掛け、姿勢を安定させる。機体の固い手触り。アリスはまじまじと手元を見つめた。
「私はいつも手ブラだったわ。夢を通しては、ぼよぼよひとつ、持ち込めなかった……まさか!」
上下の感覚を失ったまま漂っていると、視界のスミを、バタバタと雲を蹴散らして、とがった耳とシッポのある人影がよぎった。
「猫さん!」
さかさまの猫は雲の上を、床に漂うスモークを蹴散らすような足取りで駆けてくる。
「猫さんね! わあなつかしい、私よ! アリスよ!」
不安定に回りながら、アリスは必死に首をねじって猫のほうに顔を向けた。猫は口をあんぐりと開けて見上げている。
「アリ、アリス、あなたアリスなんですか?」
「猫さん、今なんて言ったの?」
アリスは自分が英語で叫んでいることに気づいた。猫の口から出た言葉は、アリス、という音が含まれる何かである、ということ以外分からない。
「夢で来た時みたいに、ここの言葉がしゃべれてない。私、やっぱり……」
青ざめたアリスを見つめながら、猫は見当もつかない、といった様子で首を振っている。
「猫さん、どうしよう」
アリスは浮かびながら、すがるように猫を見上げた。猫が深いため息をつく。
「アリス、ああなんてみすぼらしくなって」
「ちょっと、今のは分かったわよ!」
アリスは無造作にまとめただけの髪を、慌てて手ぐしで整えた。
「シツ、シツレイねえ」
ゆっくりとだが、かつて夢の中でしゃべっていた言葉が、舌の上でほぐれ始めた。言葉の切れ端をそろりと引き寄せると、頭の中で確かな意味が呼応する。
「キレイ …… になったとか、言えないわけ?」
大丈夫らしい、アリスはホッと体の力を抜いた。
「まあ、この格好じゃしょうがないか」
自分の不恰好なフライトスーツを見下ろし、くすくす笑った。
「アリス、自分で立てないんですか?」
「そうなのよ」
猫が手を差し伸べて、アリスを地面に……地面らしき地点に安定させた。アリスは猫が立っているすぐそばの雲の中に足をのばしてみたが、何の手ごたえもない。足下の雲を透かして、白いハトが漂っていくのが見える。ハトは、どんなにはばたいても空を切るばかりの翼に、目をぱちくりさせている。
アリスは遠ざかるハトを食い入るように見つめ、つぶやいた。
「猫さん、私、夢を見ている時とは違うわ」
「アリス、あなたはまさか……いや、そんなバカな」
「そうなのね猫さん! やっぱりそうなのね」
複雑な表情が現れては消え、最後に笑顔をわずかに緊張させて、アリスは言った。
「夢は終わりよ」