夢の歌
  
番外編 ニアネス・オブ・ユー(6)
 トビーは驚いた顔でマユミを見下ろした。


「あの島の、昔の思想家の言葉ね。スリランカ消滅騒動よりずっと以前の」
 マユミが言うと、トビーはひょいと眉を上げる。
「さすが、あのぶ厚いエレベーター建造史も読んだんだ?」
「読みごたえあったわ」
 マユミは目をぐるりと回してみせる。トビーは、
「エレベーターが押しつぶしてしまう土地の歴史を、せめて人類の記憶にとどめておくべきだって、サー・コンラッドが宇宙エレベーター事業団に進言したんだよ」
 自分のことのように誇らしげに言った。マユミはふんふん、とうなずいた。
「あのぶ厚さは彼の責任なのね。ガラパゴスとタプロバニーの歴史と文化をそれぞれ、近代史までくまなく網羅して。今度お会いしたら、寝不足のお礼を言わなきゃ」


 トビーはニヤリと笑ってマユミを引き寄せた。
「喜ぶよ。君の嫌味を聞くと元気が出るってさ」
 音高く頬に口づける。マユミはくすぐったそうに肩をすくめた。
「嫌味じゃないわ。タプロバニーの章は特に、すごくエキゾチックで楽しんじゃった。あの思想家は、プロフィールがロマンチックよね。元は小乗仏教系の修行僧で、信徒の少女に恋をして、新しい思想に目覚め……
 マユミはうっとりとため息をつく。トビーは口をへの字に曲げてみせ、
「いつの時代も禁断の恋はウケがいいなあ」
 マユミは、おや、と向き直った。
「禁断じゃないわ。彼はちゃんと還俗して、彼女と結婚したんだもの」


「うーん」
 トビーは軽く首をひねった。
「還俗したのは確かだろうが、結婚についてはハッキリしないよ。紛争のせいで役所やなんかの個人記録はほとんど失われているし、タプロバニーがセイロンからスリランカと呼ばれ始めた頃だ、百年も前の話だからね。評伝にはいろいろ脚色もされてるんじゃないかな」


 マユミは憤慨したように息をついた。
「もう。夢がないわねえ。還俗は彼女と結婚するためだったに決まってるじゃない」
 うっとりと目を閉じる。
「私は信じるわ。教義に疑問を持っていた若き僧は、まるで呪いを解かれるように、少女の言葉で目を開かれたのよ。俗世に背を向けたまま解脱を目指すことに、意味はないって」


「“小さな存在のまま、小さな世界で生きることが、我々のすべて”」
 マユミが味わうようにつぶやくと、トビーも微笑んで続けた。
「“今自分の足が踏んでいる場所に、ただしっかり立っていればいい”」