迷いのともしび(8)
沈黙が落ち、ウィリアムは、サスキアが別れの挨拶を言うために、次の息を吸い込むのだと思った。
しかしぽつりと続いた彼女の言葉は違った。
「除隊なさらないそうですね」
「ええ」
話題が尽きたわけではないと思うと、それだけでウィリアムの胸は躍った。折れた肋骨ごと。
「そうなんです。兵籍の継続を願い出ています。帰国してもすることがないし」
「無茶はなさらないで」
ウィリアムは、動ける範囲の仕草で肩をすくめた。
「僕としては何か手柄を立てて挽回したいところですが、こんなポカをしでかしては、もうあまり重要な仕事は任されないでしょうよ」
寝椅子のすぐそばに、制服の袖からのぞくサスキアの手があった。手を伸ばせば届くかどうか、確かめたかった。
サスキアは立ったまま、気づかわしげに小首をかしげている。
「ラシュブルック大尉も、心配なさってました」
「ああ」
相づちを打ちながら、ウィリアムは上気していた血がすっと下がるのを感じた。
「それで、見舞いに来てくださったんですよね」
自分の髪や額や、サスキアが身をかがめたあたりの空気にまで、まだ彼女の体温が残っているような気がする。
「リチャードのことだ、色々言ったでしょう? 美人が行ってふさぎの虫を吹き飛ばしてやってくれだの」
サスキアの暖かさも、思いがけず深い内心まで打ち明けてしまった照れくささも、まとめて振り払うように、片手を振った。
「キスでもしていっちょ元気づけてやってくれだの」
サスキアのまぶたが、ぴくりと震えた。
「そんな、だからって私は……そうですわ」
肯定するしかない、というように言葉を放り投げ、そのまま黙り込んでしまう。
「違う、僕は」
先にサスキアと再会していたというそれだけで、自分はリチャードに嫉妬していたのだろうか。そんなつまらない対抗意識で、さっきまでの魔法のような時間を、軽口におとしめた。
「違うんだ、そういう意味では」
支離滅裂な泣き言を聞かせたことよりも、ウィリアムは今この瞬間を恥ずかしく思い、たまらなく後悔した。
「私、どういう意味でも気にしませんから」
「待ってください……ミス・オスタ、あ、上等兵、どの」
一瞬固まっていたサスキアは、こわばった表情のまま小さく息を吹き出した。
「あの、それってちょっと」
後に続けようとした言葉は、くくくとこみ上げた笑いに、すべて押し流された。
たまらずに、サスキアは両手で顔を覆い、そのまま、上体を折って笑い崩れた。
ウィリアムは寝椅子のうえで、ただ見とれていた。
「すみません、おかしかったですか」
サスキアにつられて、自分が間抜けのような笑顔になっているのが分かった。
「サスキアと呼んだほうがいいですか」
「……私は嬉しいですけど」
くすくすと口元を押さえながら、サスキアが起き直る。
「やっぱり服務中は、階級つきで呼んでくださらないと」
枕から頭を浮かせ、うなずいてみせた。まっすぐに目を合わせることも、ウィリアムはもう怖くなくなっていた。
「分かりました。笑っちゃだめですよ」
「やめて」
サスキアからもう一度、輝くような笑みを引き出せた、それだけでウィリアムは、何かに感謝せずにいられない気がした。
「いつか、あなたの歌が聞きたい」
ウィリアムがつぶやくと、サスキアは静かに笑みを落ち着かせ、まなざしを返した。瞳の奥の輝きには、まだ笑顔の名残りが漂っている。
「今も歌いたい気分です」
「だったらぜひ」
「あら、駄目ですよ。テントまで聞こえてしまう」
サスキアは伸び上がってポーチを見回した。
木造のポーチがめぐらされた古い建物は、急ごしらえの仮病棟だ。医師や看護士など、医療スタッフ用の詰め所は、建物の向こうに並ぶ、大きな軍用テントの中にあった。
「じゃあテントまでは、誰もいない?」
ウィリアムは片手を伸ばしてサスキアの手を取った。
「……いませんわ」
それはあっけないほど近くにあって、引き寄せると細い指が優しく握り返した。