夢の歌
  
迷いのともしび(6)
「家族でセイロンに残ったほうが安全だったんだと、ずっと思っていました。でもあそこも一時は……
 その年の春頃、インド洋での行動半径を広げ始めた日本のゼロ戦に、一時コロンボ沖までが脅かされるようになっていた。
「セイロンにいらしたの」
「子供の頃です」
 ウィリアムは自分の繰り言もまるで子供のようだと、きりりとした制服すがたを盗み見、バツの悪い思いで目をそらした。
「もう …… 帰ってもらえませんか」
 しぼり出すように、言葉が出てしまっていた。
「痛みがぶり返してきたようだ」
「ブロア大尉」
 サスキアは椅子から腰を上げた。
「看護士を呼びましょうか」
「結構。いいから、帰ってください」
 ウィリアムは深くうつむいて、自由がきくほうの手を額のあたりにかざした。
「ひとりにしてください。これ以上、情けない姿を見られたくない」
「ひとりになって、泣きたいという意味?」
 遠慮のない言い方に、ウィリアムはむっつりと黙ったまま、相手が立ち去るのを待った。
「私、おりますわ」
 サスキアは立ち上がり、椅子を持ち上げた。
 くるりと回して、寝椅子の背後へ運ぶ。
 き、と椅子の脚が床をこすった。
「ひとりでいると、思う存分泣けてしまって、あとでとても……ぽっかりとからっぽの気持ちに襲われるんですよ。とても虚しくなって」
 顔の見えない位置に、サスキアが腰を下ろした気配がする。
「誰かがいる場所で泣くと、人前であんなに泣いて恥ずかしいとか、そんなことにとらわれて、あとであまり深く考え込まずにすみますの」
 静かな声を聞きながら、ウィリアムはサスキアも家族を思いながら泣くのだろうかと思った。
「私は戦争が始まる前から、家族のことを考えると泣いてばかりいて」
 ウィリアムは、暗いアパートのベッドで、家族の写真を抱きしめながら泣いている少女を思った。
「パリに出たばかりの頃は、毎日泣きながら眠っていましたわ。目が腫れて」
 腫れぼったい目で音楽学校へ出かけ、楽譜を手に寒々とした廊下を歩く。
「レッスンも厳しくて、怒られてばかり。歌を歌って喝采をあびる夢を、よく見ました」
 暖かい拍手に正式のお辞儀をする。しかし顔を上げるとそれはまだ幼い子供のサスキアで、居間に集まった大人たちが、くつろいだ様子で微笑んでいた。
「故郷にいた頃は、近所の人も一緒になって、サスキアの声はパリでも通用するぞ、なんて。でもパリに行ったことのある人なんて、いませんでした」
 ウィリアムは枕の上で少し顔を傾けた。涙がまっすぐ落ちては、胸元の包帯が湿ってしまう。
 ぽつりと言った。
「オランダのご家族が、ご無事だといい」
「はい」
 こくりとうなずいてから、サスキアは遠い空を見つめた。
「ご家族とは、親密でしたの?」
「父とは……ソリが合いませんでした」
 ウィリアムはつとめて自然な声で話そうと、いったん息を吐いた。
「植民地での事業が成功して、勲章をもらったのが自慢で。英仏海峡を渡る退却作戦で僕が昇級すると、死地から見事に生還したのに、どうして勲章がもらえないんだと憤慨してた」
 目だけで振り返り、背後の病室を思う。
「本当に命を賭けたのは、何度も船を往復させてくれた海軍の連中なんだ。我々はただ大陸のはしっこに追い詰められて、そこから救出されただけで」
 サスキアが続きを待っているような気がして、ウィリアムはぶるりと頭を振った。
「母は、とにかく弟を甘やかして」
 記憶のなかで、サラサラと流れるスカートに、小さな手がまとわりついている。
「農場をやってる知り合いに頼んでせっかく疎開させたのに、田舎はイヤだと泣いてると言うんで、すぐに呼び戻して」
 ウィリアムは、ささやくように言葉を吐き出した。
「同じブロックでも、無傷ですんだ家が多かったんだ。なのにどうして」
 ぐっと奥歯を噛みしめる。
「運が悪かったんだ。皆そう言う。運が悪かったと」
 息をしようと言葉を切るたび、きつく固定剤を巻かれた胸が跳ね上がった。
「うちの地下室は頑丈で、防空壕がわりに調度いいと思っていたのに」
 もう嗚咽を抑えられなかったが、ウィリアムは言葉があふれるにまかせた。
「あっさり全壊だ。何もできなかった。運がとてつもなく悪いと、何もできない ……
 拳を眉間に押し当て、ウィリアムは呼吸を整えながら目を閉じた。
「弟は、ティモシーは、まだほんの十歳で」
 そうしているとあたりはとても静かで、背後でサスキアが小さく身動きする気配までが、手に取るように分かった。
「僕は結局、一番大切なものが守れなかった。大尉どのだとか持ち上げられたところで …… 何の意味もない」
 苦く、ままならない思いを、かえって味わうように、ゆっくりと言った。
「ダンケルクの退却作戦で失った将校の、穴埋めのために昇級したんだから。ドイツ軍に対して、直接何かできたわけじゃないんだ」
「待って」
 サスキアが声をあげ、言葉につまってあえいだ。
「何の意味もないなんてことないわ。ダンケルクで回収した人員があったからこそ、のちの反撃に兵力を投入できたのでしょう? あなたが今こうして、アフリカ戦線に参加しているように」
 涙声にそぐわない、戦術用語を使った硬質な言い回しに、ウィリアムは少し口元をゆるめた。
 沈黙のあと、背後でサスキアがふっと息を吐き、椅子の背もたれをきしませた。
「また、お笑いになる?」
「いいえ、立派です。でも、やっぱりあなたには似合わない」
「似合わないのは……あなたも同じですわ」
 背後から聞こえる口調は重く、途切れがちだったが、声には静かな力がこもっていた。
「任務であちこち飛び回って、色んな人に会いましたけど、“ドイツの侵攻を防げなくてすみません”なんて、人に謝っていた兵隊さんは、あなただけでした」
1942
 4月:セイロン島コロンボ沖で、ゼロ戦が英軍艦を撃沈