迷いのともしび(4)
さらり、と砂漠の気配を含んだ風が吹いて、ひざ掛けにくるまれたウィリアムの脚の上をなでていった。
十一月のエジプトは徐々に冷え込み始めていたが、冷たい湿気に骨まで凍えさせられるイングランドの冬に比べれば、乾いた大気はまるで春のように感じられた。
「あちらですよ」
仮病棟のポーチの端から聞こえてくる話し声の中に、担当看護士の声が聞き取れた。
「気難しいかたですから、まずお取り次ぎしましょうか?」
大丈夫、知り合いだから、と陽気な声が言って、軽い靴音が近づいてきた。
「ブロア大尉、お久しぶりです」
背後からの声に聞き覚えはなかったが、ウィリアムは片腕から胸にかけてと片足を固定され、他にもあちこちを包帯でぐるぐる巻きにされており、寝椅子から伸び上がって後ろを振り返る気も起きない。じっと待っていると靴音が回り込んで、正面に、カーキの制服を着た若い女性が現れた。
「……? どなたでしたっけ」
ウィリアムはけげんな顔でたずねた。
女性はがっかりするどころか、なぜか誇らしげな笑顔になった。
「やっぱり、お分かりにならないわね。私、変わりましたもの」
サスキアは寝椅子に一歩近づいて、やわらかい手つきで敬礼をした。
「でも、二年前に一度お会いしたきりだし、覚えておられないのが普通ですわ」
「二年前?」
サスキアはうなずいて、試すようにウィリアムを見つめた。
「パリが落ちてすぐの頃、リヴァプールの駅で。人ごみで言い争いを」
「あ」
ウィリアムの脳裏に、雑踏の中で途方に暮れている少女の顔がよみがえった。
「入隊したいと言った、音楽学校の、ミス……オスターデ」
その名前と目の前の制服すがたがあまりに結びつかず、ウィリアムは目をしばたたいた。
「お名前は……違ったかな」
黙ったままのサスキアにウィリアムがたずねると、サスキアは
「いえ、合っています」
慌てて言って、まぶたを伏せた。
「嬉しいですわ。名前まで覚えていてくださって」
ウィリアムは横になったまま、制服のサスキアがきびきびと歩くのを見守っていた。
サスキアはポーチの端まで行って、そのあたりに寄せられている椅子のひとつを選び、寝椅子のそばまで運んできて、腰を下ろした。
「じゃあ、本当に志願なさったんですね」
分かりきったことだったが、ウィリアムはしみじみと言った。
「ええ」
「どうしてここが?」
サスキアはにこりと笑った。
「ラシュブルック大尉に聞きましたの。アレキサンドリアで港湾支部にいたんですが、補給部隊の支援についておられた大尉に偶然お会いして」
「リチャードが見つけたんですか。さすが、あいつは目端が利くなあ」
サスキアは嬉しそうに首を振った。
「いいえ、私のほうが先に気がついたんですよ。名乗っても、しばらくはお分かりにならなくて」
「当然ですよ。どこから見てもいっぱしの女性兵士だ、ミス・オスターデ」
「オスターデ上等兵ですわ」
「これは失敬」
ウィリアムはおどけて顔をしかめ、無事なほうの腕をあげて小さく敬礼した。
「部隊では何を?」
「仏文書のタイピストです」
サスキアは笑顔のままため息をついた。
「本当は通訳を希望したんですけど、私のフランス語は、ドイツ語もイタリア語も、まったく大時代で、芝居がかっているらしくて」
「オペラ風の作戦会議というのも、詩的かも知れませんね」
ウィリアムが言うと、サスキアもくすくすと笑った。