夢の歌
  
迷いのともしび(1)
 六月のリヴァプールは、爽やかに晴れ渡っていた。
 ウィリアムは同僚の将校とともに、ごった返す駅のホームにいた。上官の客を迎えに来たのだが、目指す相手がなかなか見つからない。
「リチャード、港のほうの案内所を探してみよう」
 ウィリアムはそう言って、人ごみの中で体の向きを変えた。迷惑そうな顔をした人々の波を、謝りながら横切っていく。


 目の前にひとりの女性が、ぼんやりと横手を見つめたままやって来た。
 ウィリアムは脇へよけてすれ違おうとしたが、突然、彼女は見つめていた方向に向かって、吸い寄せられるように一歩を踏み出した。同じ方向へよけていたウィリアムは、彼女を大きく突き飛ばす形になった。
「ああっ、申し訳ない」
 かなり強く押されてたたらを踏みながらも、女性は目指す方へどんどん歩いていく。
「お嬢さん、バッグを落とされましたよ」
 ウィリアムは、あとからあとからやってくる人の足をよけながら小さなバッグをつかみ、後を追った。


「お嬢さん、バッグを」
 新聞売りの前で立ち尽くしている彼女に、ウィリアムはバッグを差し出した。
「あ、ああ。すみません」
 ぼんやりと言いながら、サスキアはバッグを受け取った。バッグから代金を出すのかと期待した売り子が、新聞を一部つかんで差し出す。サスキアは力なく首を横に振った。
「買わないならどいて」
「こっちへもらおう」
 ウィリアムは売り子に小銭を渡して新聞を受け取った。一面では、ナチスドイツのパリ入城が大きく報じられている。
「どうぞ、よかったら」
 ウィリアムの声に、サスキアははっと顔を上げた。差し出された新聞を見る。
「あ」
 意図を理解したサスキアは慌てて首を振り、新聞を押し返すように両手を振った。
「いいんです、読みたかったわけじゃなくて」
「こちらこそ、差し出た真似を」
 ウィリアムは大したことではない、というように、機嫌よく新聞を引っ込めた。
 サスキアは恐縮して小さくうなだれている。
「すみません。ご親切でしてくださったのに」
「パリが落ちて以来、ずっと同じ様なニュースばかりですから、もううんざりですよね」
 ウィリアムは一面を広げ、何気なく眺めた。
「ここ、毎日通っていたんです」
 ぽつりと言って、サスキアが紙面を指差した。一面の写真には、街路を進軍するドイツ兵の隊列が写っている。
「オペラ座まえですね。パリにお住まいだったのですか」
 サスキアはこくりとうなずいた。
「このあいだまで、音楽学校におりました」
「親御さんは安心されたでしょう。娘さんが無事帰国なさって」
「いえ」
 サスキアはあえぐように息を飲んで、ウィリアムを見つめた。
「こっちには、母の親戚がいて。両親は、家族は……オランダに」
 オランダはついひと月前にドイツ軍の侵攻を受け、たった五日で降伏していた。
「そうですか、それは」
 ご心配ですね、などという決まり文句を言うのもはばかられて、ウィリアムはそのまま口をつぐんだ。見回すと、リチャードが人の頭のうえから手を振っている。
「お気をつけて」
 それだけ言って、ウィリアムはその場をあとにした。