夢の歌
  
記憶のこだま(4)
「すみません。英語が母語ではないので、どうもいろいろとカン違いが」
 あたふたと何度も謝るマユミを、老人は首をかしげながら見つめた。
「不思議な偶然だ。トビーもいつだったか私にそう言ったよ。アリスはパン屋をしていなかったかと」
「あら、サクルトン博士も英語が母語ではないんですか?」
「いや、彼は生粋のマンチェスターっ子だよ」
「マンチェスター」


 マユミの頭でふたたび声が響いた。
(住所を言うから覚えてね)
(あなたの国とは言い方が逆なのね)
(まずお家がある通りの名前、それから街の名前、さいごに州の名前よ)
(クレイトンロード、ディズベリー、マンチェスター。言ってみて)
「クレイトンロード、ディズベリー、マンチェスター」
 呪文を唱えるようにつぶやいたマユミを、老人がぽかんと見つめている。


(バスを降りたら、ディズベリーのDまで、ABCの順に道をたどるわよ)
……ABCを順にたどるんですよね。Aのアシュフォード通り。Bの」
 懐かしい響きをただ追いかけていると、頭の中の声を、口が勝手に復唱してしまう。と、……
「Bのバートン通りを抜けて、Cのクレイトンロード」
 マユミの言葉に重ねて、地名をつらねたのはトビーだった。


「それは……私の以前の住所だが。クレイトンロード、ディズベリー、マンチェスター」
 老人は眉間に深いシワを寄せて、トビーとマユミの顔を見比べた。トビーは放心したようにマユミを見つめている。
「そう、僕はそうやってABCをたどり、サー・コンラッドの家のまえに来ていた」
「なんなのだ、気味が悪いな。君ら二人でなにか示し合わせているんじゃなかろうね?」
 老人はいらいらと車椅子の操作パネルを叩き、会場の人ごみをかき分けて去った。


「サー・コンラッド」
 マユミが我に返ったときには、老人の姿はもう見えなくなっていた。
「どうしよう、ご不快にさせてしまったわ。初対面なのに」
 うろたえて後を追おうとするマユミを、トビーが引き止めた。
「お年ですからね、すぐにヘソを曲げてしまって。でも機嫌が直るのも早いですよ。僕がとりなしましょう、長い付き合いですし」
「すみません」
 下を向いてしまったマユミに、トビーは、
「あのう、マンチェスターにおいでになったことが?」
 おずおずと切り出した。気を取り直してマユミがうなずく。
「ええ、以前いちど。マンチェスター大学の宇宙工学部を回るついでに、ユナイテッドの取材にもくっついて行けたんですよ」
「はは、ユナイテッドがついでか。豪華なおマケだ。しかし……サー・コンラッドの住所のあたりまで行かれたんですか?」
「いいえ」
 マユミは首をひねって考え込んだ。
「ううーん、どこかでアドレスを見て覚えていたのかしら……私、そういうことがよくあるんです。一度見ただけのメモの内容を、そらで覚えていたり」
「うらやましいな。僕は記憶力には自信がなくて。自分で書いたはずの覚え書きの意味が、さっぱり分からないことなんかしょっちゅうですよ」
「あ。それ、私もあります」
 マユミの言葉にトビーは笑顔を返した。
「忙しいんですね。完璧に記憶したり忘れたり」
「さっきのパン屋のことなんかまさにそれなんですよ。記憶のどの引き出しから取り出したものなのやら全然……あのう、サクルトン博士、これは? なにか思い当たられますか? “赤ちゃんの名前はトビアータ”」
「んん? いや、それは全く……すみません」
「いいんです、忘れてください」


 話しているあいだもずっと、マユミの脳裏を、長い金色の髪がゆらゆらと流れていた。
(怖い。アリスの髪の色を聞くのが)
(どの業界紙でも、サー・コンラッドの亡くなった娘の顔写真までは掲載していないって、断言できる? どこかで写真を見て……会ったような気になっているだけなのよ、きっと)
 マユミが自分に言い聞かせる言葉とは裏腹に、金髪の女性の幻影はゆっくりと現実の息づかいを増していった。
(長い金髪の……優しい声……歌は昔ほど歌えなくなったって言ってた)
(赤ちゃんの名前はトビアータ)
(こっちの語感ではそのままでもおかしくないって、みんな言うんだけど)
(やっぱり女の子らしい語尾がいいの)
 ぼんやりとした記憶のなかで、膝のうえに抱かれて見たような至近距離から、ほほえみを浮かべた口元が、マユミに向かって語りかけている。視界の端で揺れるベビーベッド。


(マイミ、もうアルファベットを覚えたの? えらいわ)
(そう、これはエーイ。アリスのAよ)
(でも本当はアシスト機のAなの……このコードの中ではね)
 地面に書かれた数字の羅列を、木の枝でなぞるしなやかな手。


(知らない誰かにアルファベットを教わったなんて)
(私のおかしな記憶の話を聞いて、今まで笑わなかった人はいなかった)
(大切だと思えた人でさえ……
(この人にはさっきから次々話してしまう)
(聞いてみようか。サー・コンラッドのお嬢さんの髪の色)


 黙り込んだままのマユミを、トビーが心配そうにのぞきこんだ。
「あのう、ミハラさん。もしよかったら、上に登ったときは重力展望室でコーヒーでもご一緒に」
「はい、あの、私でよければ喜んで」
 マユミが大きくうなずくと、胸のプレス証がプランと揺れ、トビーは「あっ」と言って片手で目をおおった。
「すみません……あなたは僕の取材に来られてたのだっけ」
「あ、そうでした」
「お誘いしなくたって今日は一緒に行動してくださるんですよね。すみません、なんだか……まいったな」
 トビーはくしゃくしゃの髪を落ち着きなくなでつけている。
「私のほうこそ、訳の分からない話ばかりして。仕事しなくちゃ」
 マユミもとり繕うように言って、背筋をしゃんと伸ばした。


「ではえっと、インタビューはその展望室で。サクルトン博士」
「おっと、トビーで結構ですよ」
「では私のことはマイミと」
「マイミ、可愛らしくていいですね」
「え、ありがとうございます」
 どぎまぎとお礼を言ったマユミよりも、トビーのほうが顔を赤くしていた。



記憶のこだま編■おわり
(トビー37歳 マユミ25歳 パパ79歳)


住所は架空のものです。マンチェスターユナイテッドはプロサッカーチーム。トビーはなんの博士号を取ったのかなあ。