夢の歌
  
記憶のこだま(3)
「車で帰宅したら、家の前で運転手が大声をあげてね」
 老人が車椅子のうえで身を乗り出し、話を引き取る。
「門が車を察知して自動で開きはじめたのだが、そこに車椅子のトビーがいたんだ。彼は門に張り付くようにしとったので、そのまま引きずられて車椅子から転げ落ちた」
「大変、お怪我は?」
「スリ傷程度だったがね。大慌てで家に運び込みましたよ。ジャージ姿の車椅子の子供だ、そのまま追い返すには忍びなくて」
「お茶をいただきながら、根掘り葉掘り身の上話をさせられました」
 息の合った語り口。何度もしている話のようで、お互いにポイントを心得ている。
「こっそり警察に連絡したら、泣きわめきながら怒ってね。毎週決まった日にわが家に来るという条件で、やっと迎えの車に乗ってくれた」


「そんなことが……
 マユミはほうっと息を吐いた。
 幼い癇癪をもてあまして泣いている子供。目の前の、落ち着いたスーツ姿のトビーからはとても想像できない。
「そしてのちに財団を作って、博士の研究を支援されるようになったわけですね」
「ええ」
 トビーがうなずく。
「そもそも、低重力メソッド立案のきっかけも、サー・コンラッドなんですよ」
「というと?」
「宇宙エレベーターの話を聞いたのは、サー・コンラッドのお宅へ伺うようになってからなんです。サー・コンラッドは、プロジェクト中の事故でお嬢さんを亡くされていまして」
「まあ……
 マユミは老人を振り返った。


「アリスは、エレベーター建造候補地の選定に関わっとってね。世界各地の風の気象データ収集のため、観測艇に乗っとったんだが……
「空を飛んでらっしゃったんですか」
 老人は節くれだった手で、車椅子の肘かけを軽く叩いた。
「もう二十七年になる。早いものだ」
「私が生まれる前ですわ。おいくつだったんですか? レディ……アリスは」
「まだ二十三、これからだった」
「お気の毒に」


 マユミの言葉に静かにうなずいてから、老人は一本指を立てて小さく振った。
「そうそう、ナイトの爵位は一代かぎりだからね、娘には“レディ”の尊称はいらないのだよ」
「まあ、そうなんですか」
「子供の頃は、同級生の貴族の子がそう呼ばれとるのをうらやましがっとった。私と妻にだけ尊称がつくようになったなんて、悔しがるだろうな」
 優しい目を遠くへ向けている老人を、トビーもほほえんで見守っている。


 マユミはふとつぶやいた。
「サー・コンラッド、お嬢さんは……パン屋さんになりたかったのでは?」
「パン屋? いや、聞いたことがないが。クッキーはよく焼いていたかな。なぜそんなことを?」
「いえ、カン違いでした。忘れてください」
 マユミは両手をバタバタと振った。
「どうしてそんな風に思ったんだろう、すみません」
「ベーカーという名前の子が皆、ベーカリーごっこをするわけではないよ」


(サー・コンラッド・ベーカー)
(アリス・ベーカー)
 マユミは心の中で何度もつぶやいた。すると、頭の奥で別の声が、こだまのように跳ね返る。
(マイミ )
(マイミ、よく聞いて覚えてね)
(アリス・ベーカー。ベーカーはあっちの言葉でパン屋さんよ。パン屋のアリス、覚えた?)


「パン屋のアリス……
(トビー37歳 マユミ25歳 パパ79歳)