夢の歌
  
記憶のこだま(1)
「ご覧ください、皆さん。あれは……なんとも驚異的な眺めではありませんか」
 演台に立つ人物が、ため息とともに片手を振った。聴衆はいっせいにそちらを仰ぎ見た。


 会場の片側の壁面は、天井から床までの空間いっぱいを使ったガラス窓になっている。
 はるかに広がる眺望は、海と、藍色に暮れていく空とが、まっすぐな白い直線によって、右と左にまっぷたつに切り分けられていた。


「ファースト・ステップ財団の低重力メソッドは、宇宙空間で行う画期的な歩行・運動訓練として、ちょうど一年まえ、この宇宙エレベーター落成と同時に、運営がはじまりました」
 トビーは演台から、静まり返った会場を見渡した。聴衆は耳を傾けながら、丸テーブルのそれぞれの席からガラス窓の眺望に見とれている。
「長期入院によって喪失した筋肉の回復や、義肢装具の装着に慣れるための訓練を、まず地球の重力から解放された状態ではじめることは、多くのリハビリ患者・義肢使用者にとって最初に出会う、大きな希望の光となっています」
 両足に均等に体重をかけた姿勢から、トビーがわずかに重心を移動させると、コンピューター制御された義足間接が、ささやくようなモーター音をたてた。


「宇宙エレベーターのそもそもの建造目的は、地上から宇宙ステーションに、低コストで部品を輸送するというものです。設計上の制限が大幅に軽減された宇宙空間で、衛星や探査船を組み立て、そのまま軌道上に送り出せるというメリットは、宇宙事業に一大改革をもたらしました」
 トビーは演台に軽く両手をかけ、テーブルからテーブルへと視線を移動させた。
「プロジェクトは現在すでに、もう一基の宇宙ステーションとエレベーター建造に着手しています。ご覧になっているこのエレベーターも、精力的に部品の輸送を行って、フル稼働している真っ最中です」


 しばし誇らしげにエレベーターを眺めやってから、トビーはにっこりと視線を会場にもどした。
「にもかかわらず、我々ファースト・ステップ財団が、エレベーターとステーションの一部を使用して歩行訓練を行うことは、エレベーターの落成当初から認められてきました」
 また窓のほうへ片手を振る。
「のちほど皆さんにも、幾人かのグループに分かれて、上まで登っていただきます。本当ならこの一周年パーティも、ステーション内で開催したかったのですが、残念ながらそこまでは許可がおりませんでした。しかし、エレベーターの下から6分の1くらいは、皆さんの寄付金でできているんですよ。見学ツアーの途中にスキを見て、シャフトのどこかにイニシャルでも落書きなさるとよろしいでしょう」
 どっと笑いに包まれた会場に笑顔で答え、トビーが資料を取り出すと、会場の照明が少ししぼられた。


「人類が宇宙への挑戦を始めて以来、無重力生活における筋力の喪失は、長い間宇宙飛行士を悩ませてきた難題でした。長期の任務を終え、地球の重力の支配下に戻っても、すぐに通常の生活が送れるような筋力の維持のために、さまざまなトレーニングメニューが考案されてきました。それらはすべて、頑健な宇宙飛行士が、ふわふわと浮かびながら筋力トレーニングを行うときの、ちょっとした反動がすぐに推進力に変わってしまう、という足場のおぼつかなさを、いかにして相殺するか、固定するかという視点に立ったものでしたが、我々の低重力メソッドでは、患者はまさにそのおぼつかなさを利用して、最初の一歩を踏み出します」


 トビーが振り返って合図をすると、正面のスクリーンに映像がうつしだされた。カメラに向かって、大きく湾曲した白い壁面が、チューブ状に長細く続いている。
 画面の奥から、ヘルメットやプロテクターをつけた大人や子供が、レール付きの稼動式手すりに一列に連なって、弾むように歩いてきた。
「ここは、ゆるやかな遠心力によって地球の重力の四分の一ほどを再現した訓練室、『雲の散歩道』です。歩行訓練の最初の段階はここから始まります。水の中を歩くより少し重く感じる程度です」
 映像のなかで、何かに笑った拍子に子供がひとり、大きく弾んでバランスを崩した。そばにいたトレーナーらしき大人が素早く捕まえ、両足を地面に着地させると、聴衆のあいだにもホッとした笑い声がさざめく。
「慣れないうちは、思わぬ方向に飛んでいってしまうんです。壁面は分厚いふかふかのウレタンで保護されています」


「『雲の散歩道』の訓練では、筋力はひとまず横に置いて、運動神経が、歩くという行為を再認識するのを助けてやります。これは、単に思い出すということではありません。右足を出して、左足を出す。普通、人はこの複雑な体重移動を、なんの特別な意識も持たずにやっています。しかし体の機能の一部を失い、自分の足があるはずの場所におかしな重りをブラ下げることになったら、我々は新たな意識で、歩くという行為を見つめ直す必要があるんです。かく言う私もそうでした。初めての義足を見下ろして、思ったものです。これは一体どうやって歩いたもんだろう? と」
 聴衆が静まり返って注視するなか、トビーはおだやかな口調で続ける。


「失意のなかにある時に、そのような当てもない状態で、ただ黙々と歩行訓練や筋力トレーニングに打ち込む精神力を持ち続けることは、なみ大抵のことではありません。私も、試練を乗り越えたと言って賞賛される。しかし試練には必ず苦い挫折や、自暴自棄がついてまわります。私も何度もリハビリセンターを抜け出しては、周囲を心配させました……
 トビーはスクリーンを背に、聴衆に向き直った。
「しかし現在、我々の訓練をサボろうとする子供も、大人もいません。宇宙ステーションに通ってるんだと友だちに自慢できる機会を、そうそう逃す人がいるでしょうか?」
 会場がまた笑い声に包まれ、映像は漆黒の空間に浮かぶ、宇宙ステーションの全体像に切り替わった。


「こうして、徐々に高重力の訓練室へ移っては段階的に重力をあげていき、歩行のコツを取り戻しながら、地上では、自分の足で公園を歩く日を楽しみに、筋力トレーニングを続ける。このような希望にあふれたリハビリメニューが現実のものとなったのも、この宇宙エレベーター建造に関わった人々の、多大な貢献があったからです」
 スクリーンに映し出された宇宙ステーションの基底部からは、エレベーターチューブがまっすぐに突き出している。長く長く伸びる白い塔に沿いながら、カメラが引いていくと、フレーム内に巨大な地球の一部が現れた。会場から感嘆のどよめきがあがる。
「のちほど上で皆さんがご覧になるのは、視界いっぱいの地球球面です。何度見ても……人生観をゆさぶられる眺めです」
 トビーの目にははもう目の前の聴衆も、ガラス窓の景色も映ってはいない。静かに口をつぐんでから、また続けた。
「リハビリ患者のひとりで、こんなことを言った子がいました。こうやって上から地球を見下ろしていると、とても戦闘的な気持ちになるのだと。さあ今から降りていってしっかりと踏んづけてやるから、そこで待ってろデカいの、そう奮い立って地上に戻るのだとか。大物です」
 会場がまた笑顔にほぐれる。


「私たちは長いあいだ、さまざまな意味においてこの“デカいヤツ”の、圧倒的な重力にしばりつけられてきました。しかし、大量の燃料を燃やして地球の重力を振り切らねば、宇宙空間に出られない時代は終わりました。宇宙ステーションの建造ドックから、巨大な有人宇宙航行艇がしずしずと旅立つのも、そう遠い未来の話ではないでしょう。たくさんの患者が最初の一歩を取り戻したこの場所から、我々人類も、いつの日か“最初の一歩”を踏み出すのです。はるかな宇宙へ向けて」


 トビーは大きな拍手に包まれながら、しっかりとした足取りで演台を降りた。
(トビー37歳)
別れてから27年後。四半世紀ぐらいで宇宙エレベーターが完成するんじゃないかなーと。エレベーターにより、打ち上げ方式以外の方法で楽々と宇宙へ出る、という構想は、「楽園の泉」作中で言及されたものです。低重力メソッドは私がでっちあげました。


人によっては「軌道エレベーター」と呼んだほうがカッコいいそうです。しかし私は「楽園の泉」から入ったので、「宇宙エレベーター」という訳語のほうに親しみがあります。