夢の歌
  
雲の果て(5)
「世界中」
 マヤルは思わずため息をついた。今度は期待どおりの反応が得られたようで、少年は満足げに腕を組んだ。
「もちろん、タプロバニー周辺にもね。赤道無風地帯にも大気の動きがないわけじゃないから、風は起こる」
 まるで自分の手柄ででもあるかのように、誇らしげに言って塔を見上げている。


 マヤルは塔の根元をそっとのぞきこんだ。
「ねえ、だったらこれは倒れてしまわないの? その風の入り口を通って、エレベーターの途中だけがこっちへやって来てしまってるんでしょう? この下には私の島があるのに」
 王国へ降りる雲の階段以外の場所では、境い目の空には空しかないのは分かっていたが、下のほうを透かし見ずにはおれない。


「エレベーターがあるのは、実際はタプロバニーからもう少し南の、赤道上の浮島なんだけどね」
 少年も一緒になって下をのぞきこみながら言った。
「大丈夫みたいだね。質量のほとんどを入り口の外に残したままでは、物質はこっちに飛んでくることはできないようだよ。ほら見て」
 少年に促されてマヤルは塔の壁面に目を凝らした。それはものすごい速さで明滅していて、チラチラとまだらにまたたくそれぞれの部分は、時にはほとんど透き通って見える。
「風の境い目にさらされた面だけが、一瞬こっちに姿を現すんだけど、すぐに向こうに帰ってしまうの」


「塔の途中が全部いっぺんにこっちへ来ているわけじゃないのね」
「うん、まぼろしみたいなものだよ」
 マヤルは感心して深くうなずいたが、考え込んでからぶるりと首を振った。
「うう、今は分かったけど、難しいわね。目覚めてからの私に、これを文章にすることができるかな?」
「文章に?」
「そうよ。手紙を書いて、ここのことをティモシーに教えてあげているの」
 少年は大きく息を飲んだ。
「ティモシーに? ねえ、君もしかしてマヤル?」


 マヤルが答える前に、隣で熊が声をあげた。
「君がマヤル? 『ハチミツ色のマヤル』?」
 熊と少年を代わりばんこに見比べ、マヤルは目を白黒させた。
「そ、そうだけど? どうして名前を……


「伝言があります」
 困惑しているマヤルに向かって、熊は気をつけの姿勢を取った。
「マヤル、貴重な【歌い手】としての訪問を、無駄にしてはいけない。雲から降りて、王国の人たちに、歌を聞かせてあげて欲しい。ひきがえるより」


 あぶなっかしく棒読みしてから、熊はふう、と息をついた。
「我々空の見張り番に伝わっている口承のひとつです。『ハチミツ色のマヤルに伝言を』。えへへ」
 かしこまった口調が気恥ずかしくなったのか、照れ笑いで締めくくった熊を、マヤルは呆然と見つめていた。


「ひきがえるさん……
 我に返って、マヤルはがばと熊に飛びついた。
「他には? ひきがえるさんは、ティモシーのことは何か言ってなかったの?」
 熊はたじたじと後ずさる。
「あの、伝言はこれで終わりだよ、ごめんね」
 マヤルは雲の中に座り込んだ。
「ひきがえるさんには分かってたの? 私がティモシーを探せないって……


「大丈夫?」
 熊はおろおろと身をかがめて、マヤルの顔をのぞきこんだ。
「お城に行こうよ。アリス王妃にもっとお話を聞こう?」
 あやすような熊の声にも、マヤルはうつむいたまま小さく首を振る。
「ええと、お城には猫もいるんだよ。ノルテって言うの。猫は好き?」


 マヤルは力なく首を横に振り続け、熊は途方に暮れて、自分の鼻をぺろりとなめた。そこへ、
「ねえ。やっぱりティモシーを探してるんだね、マヤル」
 少年がぽつりと言った。マヤルは飛び上がるようにして顔をあげた。
「ティモシーを知ってるの? どこで会えたの? いつ頃?」
 まくしたてるマヤルを、少年は慌ててさえぎった。
「違うよ、ごめん。会ったわけじゃないんだ。でも、君の事を本で読んだ」
「本で?」