「うん。ぼく、マヤルのその言い方好きになったな」
熊がにっこりと言った。
「アリス王妃に言って差し上げよう。あっちの世界のご両親に、メッセージは伝わってるのかしらって、胸を痛めておられるから。言葉を伝えられなくても、あっちとこっちの歴史をつないで王妃がここにいることの意味は、ちゃんと境い目の空が知ってる……うん」
「君たちの出会いは、空に許された」
熊は少し後ろにさがってもう一度つぶやき、マヤルとジャックを誇らしげに眺めた。
が、ジャックの顔は、見る見るゆがんでくしゃくしゃになった。
「ごめん……ごめん、マヤル」
「どうしてジャックが謝るの?」
「分かんないけど、だって、ボクがティモシーの場所を取っちゃった。ボクが」
ジャックは激しくしゃくりあげた。ティモシーがここにいないのは、自分のせいのような気がして仕方なかった。
熊が両手を広げ、涙の理由を言葉にできないでいるジャックを、優しく抱きしめた。
「ボクら会わないほうがよかった。ボクがマヤルと、ティモシー」
ジャックは熊のフロックコートに顔をうずめ、くぐもった声をあげている。
マヤルは静かに歩み寄って言った。
「違うわ。あなたたちに会って、私は知ることができた」
「何を?」
熊がたずね、ジャックが涙と鼻水で汚れた顔をあげる。
マヤルは切ないほど広大な雲海をぐるりと見渡し、両手を広げて、また下ろした。
「あらゆる局面で数え切れないくらいたくさんに分岐した、あらゆる過去があることを」
「そのうちのどこか他の過去では、私は境い目の空でティモシーを見つけているわ。その本のラストシーンみたいにね」
「そしてまた他の過去では、ティモシーはロンドンに引っ越しせずに済んでいるわ」
「それからまた別の過去では、私とティモシーは同じ人種よ」
「でもその他にも、白人のティモシーと茶色いマヤルが、そのままでも仲良くできている過去が、きっとどこかに存在するんだ」
「ティモシー」
ぎゅっと眉をひそめ、マヤルは天を仰いだ。
「私たち、この宇宙のいろんな場所で、一緒にいるわ」
■■■
「ジャック、ジャック起きて」
「うーん、ボク、マヤルに会った」
ジャックはこぶしで目をこすりながらつぶやいた。
「ハイハイ、ちょっと起きて、ベッドで寝ましょう」
目が開かないまま抱き起こされ、ジャックはのろのろした手つきで母親にしがみついた。
「一緒にお城に行って歌ったの。マイミは……?」
エレンの肩にだらりと頭を乗せてもたれかかりつつも、ジャックはなんとか目を開けている。
「さっきおじいちゃんに電話があったわ。やっと帰れるって」
ジャックを抱いたエレンの後ろから、トビーも廊下をついて歩いている。
「うん。夕飯いっしょに食べられなくてごめんねって言ってたよ」
「起きて待ってる」
「ダメダメ。ノルテもいい子でケージに入ったわよ」
「マヤルの本当の名前はシーナマヤル・タヌワラレヤ、シーナは夢って意味のシンハラ語……」
ジャックの目が閉じ、ことんと頭が落ちた。
「あら、あらあら。トビー、メモってくださいます?」
エレンが慌てて言い、
「んん? いいよ、なんなの」
トビーはリストウォッチ型のコンピュータ端末をかまえた。
「“本当の名前はシェナマヤル”、ええと、その後何て言ってました?」
「呪文みたいな……それから、夢、か何か。よく聞き取れなかった」
客間に入るとトビーがベッドの上掛けをめくった。エレンは息子を手際よくベッドに降ろす。
「この子の寝言、面白いのでメモしてるんですよ。前なんか、グレッグの難しい学術書の内容をつぶやいたり」
「へえ、末恐ろしいね。どういう夢を見てるんだか」
「本人は全く覚えていないんですけどね」
「まあ、夢なんてそんなものだ」
ベッドをはさんで両側から、安らかな寝顔をのぞきこむ。
「なんにせよ……」
エレンはカエルのフードをちょっとめくり、
「いい夢を。坊や」
そばかすの散った額にキスをした。
雲の果て編■おわり