夢の歌
  
雲の果て(21)
「うん。ぼく、マヤルのその言い方好きになったな」
 熊がにっこりと言った。
「アリス王妃に言って差し上げよう。あっちの世界のご両親に、メッセージは伝わってるのかしらって、胸を痛めておられるから。言葉を伝えられなくても、あっちとこっちの歴史をつないで王妃がここにいることの意味は、ちゃんと境い目の空が知ってる……うん」


「君たちの出会いは、空に許された」
 熊は少し後ろにさがってもう一度つぶやき、マヤルとジャックを誇らしげに眺めた。
 が、ジャックの顔は、見る見るゆがんでくしゃくしゃになった。
「ごめん……ごめん、マヤル」


「どうしてジャックが謝るの?」
「分かんないけど、だって、ボクがティモシーの場所を取っちゃった。ボクが」
 ジャックは激しくしゃくりあげた。ティモシーがここにいないのは、自分のせいのような気がして仕方なかった。
 熊が両手を広げ、涙の理由を言葉にできないでいるジャックを、優しく抱きしめた。


「ボクら会わないほうがよかった。ボクがマヤルと、ティモシー」
 ジャックは熊のフロックコートに顔をうずめ、くぐもった声をあげている。
 マヤルは静かに歩み寄って言った。
「違うわ。あなたたちに会って、私は知ることができた」
「何を?」
 熊がたずね、ジャックが涙と鼻水で汚れた顔をあげる。


 マヤルは切ないほど広大な雲海をぐるりと見渡し、両手を広げて、また下ろした。
「あらゆる局面で数え切れないくらいたくさんに分岐した、あらゆる過去があることを」


「そのうちのどこか他の過去では、私は境い目の空でティモシーを見つけているわ。その本のラストシーンみたいにね」


「そしてまた他の過去では、ティモシーはロンドンに引っ越しせずに済んでいるわ」


「それからまた別の過去では、私とティモシーは同じ人種よ」


「でもその他にも、白人のティモシーと茶色いマヤルが、そのままでも仲良くできている過去が、きっとどこかに存在するんだ」


「ティモシー」
 ぎゅっと眉をひそめ、マヤルは天を仰いだ。
「私たち、この宇宙のいろんな場所で、一緒にいるわ」


■■■

「ジャック、ジャック起きて」
「うーん、ボク、マヤルに会った」
 ジャックはこぶしで目をこすりながらつぶやいた。
「ハイハイ、ちょっと起きて、ベッドで寝ましょう」
 目が開かないまま抱き起こされ、ジャックはのろのろした手つきで母親にしがみついた。


「一緒にお城に行って歌ったの。マイミは……?」
 エレンの肩にだらりと頭を乗せてもたれかかりつつも、ジャックはなんとか目を開けている。
「さっきおじいちゃんに電話があったわ。やっと帰れるって」
 ジャックを抱いたエレンの後ろから、トビーも廊下をついて歩いている。
「うん。夕飯いっしょに食べられなくてごめんねって言ってたよ」


「起きて待ってる」
「ダメダメ。ノルテもいい子でケージに入ったわよ」
「マヤルの本当の名前はシーナマヤル・タヌワラレヤ、シーナは夢って意味のシンハラ語……
 ジャックの目が閉じ、ことんと頭が落ちた。
「あら、あらあら。トビー、メモってくださいます?」
 エレンが慌てて言い、
「んん? いいよ、なんなの」
 トビーはリストウォッチ型のコンピュータ端末をかまえた。
「“本当の名前はシェナマヤル”、ええと、その後何て言ってました?」
「呪文みたいな……それから、夢、か何か。よく聞き取れなかった」


 客間に入るとトビーがベッドの上掛けをめくった。エレンは息子を手際よくベッドに降ろす。
「この子の寝言、面白いのでメモしてるんですよ。前なんか、グレッグの難しい学術書の内容をつぶやいたり」
「へえ、末恐ろしいね。どういう夢を見てるんだか」
「本人は全く覚えていないんですけどね」
「まあ、夢なんてそんなものだ」
 ベッドをはさんで両側から、安らかな寝顔をのぞきこむ。


「なんにせよ……
 エレンはカエルのフードをちょっとめくり、
「いい夢を。坊や」
 そばかすの散った額にキスをした。

雲の果て編■おわり

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中断にもかかわらずお付き合いいただき、誠にありがとうございました!番外編をはさんで、もう一章です。