夢の歌
  
雲の果て(19)
「ぱられる?」
 熊が繰り返す。


「パラレルワールド、『未来探偵』だよ! パパの書いてるシリーズもの!」
 ジャックは興奮に息を詰まらせながら、スエットをぐいぐいと引っ張った。
「ボクの時代に、そういう仮説があるんだ。大抵のタイムスリップ映画も、つじつま合わせの説明にこれを使ってるよ。多世界解釈の……なんだっけ」
「分かるように言ってよ」


 ジャックはじれったげに足踏みをした。
「平行世界だよ。ボクらが暮らしてる宇宙から少し位相のズレた場所には、別のたくさんの宇宙が、折り重なって存在するっていうんだ。宇宙全体の質量密度を計算すると、そんな未知の質量領域が、膨大に存在してもおかしくないんだって」
 一気に言ってそこで息を切らしてしまったが、ジャックはがっつくように空気を吸い込んだ。
「パパの本では、そこは少しずつ歴史の違うよく似た宇宙で、時間旅行者が自分の過去だと思ってたどり着いた先は、単に次元の違う別の過去だったってオチになるの。だから時間旅行者は、過去をいじっても消滅したりしないってわけ。彼が干渉したのは、別の世界の過去なんだからね」


「あらゆる局面で“過去に”作り直される……
 熊は、まだ混乱しながら鼻づらを振った。
「じゃあ、そのたくさんの過去のどれかに、ティモシーがいるの?」
 ジャックは、ビュンと音が聞こえそうな勢いでうなずいた。
「そうだよ! ほかの可能性世界のどこかで、マヤルはティモシーを見つけられるかも知れない!」
 熊も目を輝かせる。じたばたと雲を踏み散らしている二人に向かって、マヤルはしかし、黙って首を振ってみせた。


「マヤル、どうして? やってみようよ!」
「マヤル、あらゆる可能性に賭けるべきだよ!」
「あなたのパパのお話は知らないけど……その境い目を実際に超えるってことは、この世界での主観を捨てる、今までの自分を捨てるってことよ。私は、この私のままティモシーに会いたい」
「そんな……このままのマヤルじゃなくなるの?」
「だって、すぐ近くにあるはずだよ? この雲の中に、溶けているんでしょう?」


 マヤルはジャックの指差した雲のかたまりを、じっと見つめた。
「きっと、そうやって隣り合って存在するたくさんの過去たちは、私たちがあずかり知らない、高い高い場所からでなきゃ、見渡せないのよ。ひとつの過去に足を置いたままでは、存在の片鱗を感じることすら叶わない」
「高い場所?」
「宇宙えれべーたーくらい?」
 熊が塔を見上げる。マヤルは首を横に振った。
「ううん、もっと、もっと、もっとよ。宇宙エレベーターだって、ちっちゃな地球にちょっと添えられただけの塔でしかないわ」
 言いながら、マヤルも熊の視線の先へ顔をあげたが、その目に宇宙エレベーターが映っているわけではなかった。


「宇宙から地球を見下ろすより、もっとずっと高い視座よ……だけど、私たちにそんな巨大な視座は持てないわ」
 さらに高い場所を仰いで、マヤルが首を反らす。黒髪が背中に長く垂れた。
「この小さい場所にいるかぎり、私たちに持つことが許されているのは、限られた過去と、そこから続く不可逆の未来ひとつきりなの」


 マヤルは静かに視線を地平に戻した。
「時空のなかで起こり得た、すべての可能性を一度に見渡せる場所へ行くには、今持っている過去を捨てなきゃ」
「だって、このままどんなに未来を探しても、今の私が“ティモシーが死んだあとの私”である限り、雲の中ではその事実を発展させた未来にしか会えないんだもの」
「そして、一旦そんな高い場所へ行ったら、今までいた小さな世界の出来事なんて、きっとどうでもよくなってしまうんだわ。世界との関わりから、切れてしまうのよ」


 マヤルは深く息を吐き、ゆっくり吸い込んだ。
「世界との関わりを捨てて、小さな自分を捨てて、そんな場所へ行きたがるなんてまるで、まるで」
「“りんね”から抜け出したがってるお坊さまたちみたいだわ」


「そうよ。小さな存在のまま、“りんね”の中で生きることが、私たちのすべてなのよ」


 マヤルは、なにか圧倒的な量の知識とその理解が、自分の体に詰め込まれていると感じた。体が今にも張ち切れそうになって、手の先がチリチリしている。しかし、頭の中は穏やかに澄み渡っていた。


「今自分の足が踏んでいる場所に、ただしっかり立っていればいい。そういうことなんだわ」