夢の歌
  
雲の果て(18)
「熊さん。それ、さっきも言ったわね」
 マヤルは軽く首をかしげた。何となく片手を上げ、額をさぐる。


「うーん、ごめんなさい」
 熊は苦笑して鼻づらをぽりぽりとかいた。
「単にこういう時の決まり文句なんだよね、コレ。つい言っちゃう」


「こういう時って?」
「【境い目の空】のことで、頭がこんがらがってしまった時。たいむぱらどっくすの言い伝えなんだ」
「これね、SF黎明期の古い小説の一節なんだよ。なぜかこっちで引用されてるの」
 ジャックが口をはさんだが、
「ううん、待って。何だか……分かりそうな気がする」
 マヤルは額に手を当てたまま、正面の何もない空間をぼんやりと見つめていた。
「未来は……あらゆる局面で“過去に”作り直されるのよ。そういう意味よ」
 熊とジャックはぽかんとしている。
 マヤルは雲の中を見つめながら、何度もぱちぱちとまばたきをした。
「だって、時間は……一方向にしか流れないもの。そうよ」


 途切れ途切れにつぶやきながら、マヤルは押し寄せる理解の波にもまれていた。
 あらゆることを感じることができた。あらゆることがあるがままにそこにあった。


 そのこと自体を特に不思議には感じなかったが、すべてのものがあるがままにあるそこは、自分の小さな頭の中だった。
「頭が張ち切れそう」
「だいじょうぶ?マヤル」


 マヤルは水の中を歩くようにあたりを手探りした。熊とジャックが手を貸そうとしたが、マヤルは振り払った。
「聞いて」
 考えを吐き出していないと、頭の中の洪水に飲み込まれそうだった。
「私たち歌い手が雲に溶けて時間を渡るとき、それは時間の中を自由に動いているんじゃないわ。今の自分にとって確定している過去のつづきを、空が仮に発展させて、見せてくれているだけなのよ」


「空が……?」
「仮に?」
 声をかけても、マヤルの視線は熊とジャックのどちらの姿も通り抜け、どこか遠くに向かっていた。
「その仮の未来は、歌い手が雲から降りてその時代に足を降ろすことで、初めて新たな過去として確定する。ねえ、歌い手は、王国のどの時代を選んで降りることもできる。そうよね? 熊さん」
「う、うん」
 熊は慌ててうなずく。
「ということは、今この瞬間にだって、新しい歌い手が夢を見て、どこかずっと過去の王国に降りようとしているかも知れない。そうしたら、その時点の空の見張り番の口承には、新たにその子の名前が歌い手として加えられる。そうしたら」
 熊とジャックは一心に耳を傾けている。
「そうしたら、そこから始まるのは、熊さんが今知っている口承とは全く別の口承が伝わる、全く別の王国の歴史のはずよ」


 ジャックは息を飲んだ。
「本当だ……それで歴史に食い違いは起きないの?タイムパラドックスは起きないの?」
 うろたえてまくしたてるジャックに、マヤルは静かに答えた。
「起きていないと思う。つまりそのために、王国の過去は、未来の中で刻一刻と作り直されているんだと思うの」


「え? え?」
「過去が作り直される?」
 熊とジャックは競うようにマヤルに詰め寄った。
「それまでの過去はなくなって……消えてしまうってこと?」
 ジャックは額の生え際から手を差し入れ、くしゃくしゃと髪をかきまわした。
「じゃあ、じゃあ……新たな歌い手が夢を見て、どっか適当な過去の王国へ降りるたびに、ボクらの過去の記憶は塗り替えられているの? その歌い手がやって来る以前の歴史は消え、その時点から新たな歴史をやり直して?」


 マヤルは首を振った。
「きっと違うわ。だってそれじゃ、一体いつになったらちゃんと時間が流れ始めるのか分からない。今この瞬間にも、新たに来るかも知れない歌い手を待ち続けて、永遠に足踏みしているわけには行かないでしょう。ひとたび新たな過去として確定し、流れ始めた時間は、そのまま流れていくよりほかないのよ」


「んん―――
 両目がくっつくほど考え込んでから、熊は長い舌でぺろりと鼻をなめた。
「じゃあ、“歌い手がやってきた場合”と、“歌い手がやってこなかった場合”の、ふたとおりの過去ができあがって、流れ始めるの?」
 隣でジャックが首を振り、深刻な表情でつぶやいた。
「ふたつどころじゃない。いくつもいくつもだ。何かが起きた数だけ、“それが起きなかった場合”という過去があり得るとしたら」


 マヤルは、熊とジャックの視線を導くようにして、肩越しに雲の平原を振り返った。
「こう思うの。歌い手が雲から降りてその時代を選ぼうが選ぶまいが、すべての可能性は、この雲の中に、あらかじめ溶けている。そして、その時代を選んだ歌い手にとってだけの過去として確定するのよ。時間の流れは、ただひとつだけじゃないんだわ」


「ひとつだけじゃないって、それ、どれくらいの数?」
 熊は無邪気にたずねたが、ジャックは顔色を変えていた。
「すべて? すべての歌い手の夢が、枝分かれして、ここに?」


 マヤルは雲を見渡したまま、鋭く首を横に振った。
「歌い手だけに限らないわ。この先歌い手としてここへ迎えられるかも知れないすべての人。それから、これまで歌い手としてここへ来たかも知れなかったすべての人」
 マヤルが言葉を切る。ジャックは魅入られたように立ち尽くした。
「あっちの世界の人間すべて? 過去から未来まですべての……すべての可能性が、この雲の中に?」
 ふらりとよろめいた拍子に、ジャックは視線を足元に落とした。雲の白いかたまりが、足元からこちらに向かって、ふわふわと立ちのぼってくるような気がしてくる。


 ジャックは呆然としながらつぶやいた。
「パラレルワールドだ。すべての事象はそうなる可能性があるかぎり、いくつにも分岐して存在する」