夢の歌
  
雲の果て(17)
 ジャックは不安げにスエットの裾を引っ張った。
「だって……知らないんだよ。ただの思考実験だって言ったでしょう」
「でも、そうやって詳しく調べているのよね? 実際にやってみた人もいるんでしょう?」
 マヤルはすがるようにジャックを見つめながら、ごくりと唾を飲み込んだ。
「ジャックの時代では、時間旅行の方法が発明されているのよね?」
 ジャックは慌てて両手を振った。
「違うよ。タイムマシーンなんか発明されてない。時間の構造はまだまだ大きな謎で、それでいろんな仮説があるんだ」


 マヤルは表情をこわばらせたまま立ち尽くしてから、大きく息を吐いた。
「ジャックに頼めば、私の代わりにティモシーに伝えてもらえるって、ちょっと思った……
 両腕で自分の体を抱きしめる。
「マヤル」
 ジャックは泣き出しそうな顔で近づいた。
「たとえボクが過去のティモシーに会いに行けたとしても、過去を変えたら君は……


「消えてしまうかも知れない? それでもいいわ」
 マヤルは決然と言った。
「ひとりぼっちで雲の中をさまよう夢なんて、なくしてしまっても全然構わない」
「ボクらが会えたことまで、なしになってもいいって言うの? そんな」
 ジャックが年相応の幼い声を弾ませる。
 マヤルは真っ直ぐに立ち、まなざしに力を込めた。
「ティモシーを助けたいの」


「待って、待って。整理させてよ。ええと」
 熊が黒いツメのついた指を広げ、数を数えるように順繰りに折った。
「死ぬ前のティモシーと会う。ロンドンを離れてって伝える。ティモシーは爆弾から助かる。そうして……どうなるの?」
 ジャックが、視線はむっつりとマヤルに据えたまま、顔の向きだけで熊に答えた。
「あっちでのマヤルの現実が、変わるんだ。もう大人たちもお屋敷の一家のことで言葉をにごしたりしない。ティモシーは生きてるから、そのあとも、いつでも夢に来られる」
「ああ」
 マヤルはため息をもらし、祈るように手を組み合わせた。


 ジャックはゆるゆると首を横に振った。
「そうして、死んでしまったティモシーを探していたマヤルは消え、マヤルに教わったとおりロンドンから逃げて、生き延びたティモシーはいつでもマヤルと夢で会えるけど、そのマヤルはロンドンに爆弾が落ちるなんてことを知るはずもないマヤルで……ほら、やっぱりパラドックスだ」
 顔を上げ、熊とマヤルに訴えかける。
「不都合な過去を消して戻ってきたら、現在の自分の生活はすっかりバラ色になっていた、なんて、タイムスリップ映画みたいなこと、到底ムリなんだよ」


「たいむすりっぷえいが?」
 熊がオウム返しに言った。ジャックは、気にするな、というように片手を振る。
「そういうお話があるんだよ。ホントじゃない」
「えすえふ、みたいなもの?」
「そう、ジャンル分けとしてはSFだね」
 ジャックはスエットの袖をモコモコさせながら腕組みをしている。熊は大きな背中を丸めて殊勝げに聞き入っている。


 マヤルはデコボコの二人組を静かに見つめていた。
「それはただのお話で、本当にそれをやったらどうなるかってことは、ジャックの時代でも解明されてない、そうよね?」
 マヤルは両手を祈りの形に組んだまま、宣言するように言った。
「私、もう行くわ。もっと未来を探す」
「マヤル」
「色々教えてくれてありがとう。私は伝言を受け取ったせいで、もう王国の過去を探すことはできないけど、それはもう関係ないでしょう?」
「どうして?」
 熊が首をかしげると、ジャックがあとを続けた。
「ティモシーはもう新たに夢を見ないからね。マヤルが過去をすっかり探し尽くしているのなら、今の時点で可能性があるのは未来だけってことになる」


「そうか……うん」
 熊はぐっと背筋をのばした。
「未来に賭けよう。マヤルが言ったように、ティモシーは死ぬ前に夢に来たけど、何か間違えてすごく未来に行ってしまってるんだ。きっとそうだよ。行っておいでマヤル」
 熊は勢いよく鼻をふくらませた。
「未来はあらゆる局面で新たに作り直されているんだから」