雲の果て(15)
熊はぐっと黙り込み、両手を腰にあててジャックをにらみつけた。
「怪獣がいないなんて、そういうこと言う子は……」
「いいから、ちょっと最後まで聞いてよ」
ジャックはなだめるような手つきで熊をさえぎった。
「パラドックスは、現実には起こりえないからパラドックスなんだ。いいかい?」
ジャックはゆっくりと話し始めた。
「いま五十歳の時間旅行者が時間をさかのぼって、五歳の時にあったイヤな過去を変えたとするよね。イヤな事なんか何も起きなかった、というように」
「うんうん」
熊は早くも引き込まれて、身を乗り出している。
「そうすると、二十歳の自分も四十歳の自分も、そのイヤな過去について何も知らないから、思い悩んだりはしない。五十歳までとても幸せに暮らせる」
「うん。だってそのために時間旅行をしたんだよね?」
「そう。でもそうすると、そのイヤな過去を変えたくて時間旅行を思い立つはずの、五十歳の自分まで、存在しなくなってしまうんだ。これがタイムパラドックス」
「ん? ええと」
熊が鼻先を天に向けて考え込む。
ジャックは根気よく続けた。
「五歳の過去への時間旅行を終えて、旅行者が五十歳の自分の時代に帰還したとき、人生は全く違うものに変わってしまっている」
「うん。だから、その後も幸せに暮らせるってことでしょ?」
「そうじゃないんだ。その人の人生に、時間旅行そのものがなかったことになっているんだよ。五十歳で時間旅行をしたという記憶を持つ、その人の居場所は、その世界にはもうなくなってるんだ」
「ええ? 居場所がなくなったら、その人はどうなるの?」
「消えてしまうの?」
マヤルも食い入るようにジャックを見つめた。
ジャックは二人の真剣なまなざしを受け流すように、ただ肩をすくめた。
「わかんないよ。あのさ、これは時間論理の単なる思考実験にすぎないんだ」
「思考実験?」
「この話は、歴史に干渉して、パラドックスが起きたとき、ものごとがどうなるかってことを説明してるんじゃないんだよ。むしろ、パラドックスはそもそも起こり得ないってことを、言おうとしてるんじゃないのかな」
ジャックは二人を交互に見つめた。
「少なくとも境い目の空ではそうなる。自分のいる過去の王国に降りようとしても、見えない壁にはばまれるでしょう?」
自分の言葉をゆっくりと吟味しては、うん、とひとつうなずく。
「パラドックスが起こるような行動自体、実行には移せない。そういうことだと思う」
熊もマヤルも黙り込んでいる。ジャックはひとりでしゃべり続けた。
「マヤルがむささび時代以来ずっと雲から降りていなくても、伝言を受け取った時点で、もう王国の歴史に干渉したことになるんだ。雲から降りたのと同じなんだよ。ひきがえるさんの伝言も、『過去へ戻って』じゃなくただ『雲から降りて歌ってあげて』としか言っていない。ひきがえるさんには、そのへんが分かってたんじゃないかな」
ジャックは言うべきことは皆言った、とばかり、満足げに息をついた。
「ぱらどっくすはそもそも存在できない……怪獣は初めからいなかったなんて……」
熊は呆然と立ち尽くしていた。
「あ、そういえばこれは猫時代に加わった新しい口承だったな……ひきがえる師のお言葉には、怪獣なんてどこにもない」
ぶつぶつとつぶやいている熊の様子を見守りながら、ジャックはふと、隣に立つマヤルの背の高さに気がついた。ジャックの頭は熊のフロックコートの胸のあたりまでしか届かないのだが、マヤルの目の位置は熊とほとんど変わらない。
「マヤル、ティモシーは今いくつなの?」
ジャックはマヤルの姿を上から下まで眺めた。
「マヤルはもうずいぶん大きいよね。これから空に来るっていうティモシーがそんな年だと、夢を飛ばすのはちょっと難しいと思う」
ジャックの言葉に、熊は我に返って眉をしかめた。
「ジャック。またそんな意地悪言って。大丈夫だよマヤル」
熊は鼻を振りながらマヤルの顔をのぞきこんだ。
「まだチャンスはあるよ。未来はあらゆる局面で新たに作り直されているんだから」
力強く締めくくってから、あっと息を飲み、
「これも怪獣たいむぱらどっくすの……」
そのままがっくりと肩を落としてしまった。
「熊……」
ジャックはすまなそうな顔で近づき、おずおずと熊の肩に手を乗せた。
「怪獣がただのおとぎ話でも、言葉の意味は間違ってないよ。未来にはいつだってチャンスがある」
「だよね、そうだよね」
熊は勢いよく復活した。
「きっとどんなに遅れてもティモシーは空に来るよね。大人の【歌い手】が来たことだってあるんだもの」
「そうとも。ねえマヤル、ティモシーは今何歳なの?」
「ティモシーは、ティモシーは……もう死んでしまっているのよ」
マヤルは力の抜けたような声で言った。