夢の歌
  
永劫の歌(8)
 ヤールシタはひとり、街のはずれの雑木林を抜け、ぽかりと開いた草地に足を踏み入れていた。
「おお、ヤールシュじゃないか」
「今日はひとりかい?」
 ここでもヤールシタは暖かい歓迎を受けたが、仕事の手を休めずに声をかけてくる人々は、誰ものんびりとしている。街の者たちの、キビキビとへりくだったような礼儀正しさとは違っていた。
「ホイこれ、おあがりよ。焼きたてだよ」
 即席のかまどの前にいた年配の女性が、なにかほかほかした焼き菓子を放ってよこした。
「ありがとう」
 ヤールシタがかじりつくと、口中にバターと生姜の豊かな香りがあふれた。


 口をもぐもぐさせながら、男たちが薪を割ったり、馬の世話をしたりしている広っぱを抜ける。ごたごたと立ち並ぶ荷馬車の隊列のかげから、小柄な人物がひょいと顔を出した。
「マルテクおやじ」
「ヤールシュ!」
 人なつこい笑顔を浮かべ、マルテクは日に焼けた両腕で少年を抱いた。
「ウージーは?」
「なにやら衣装の最終変更だとかで、いま皆と大車輪で針を動かしとる。ウージー!」
 荷馬車の隊列に向かってマルテクが声を張り上げると、
「なによ父さん!」
 賑やかな声に混じって、弾けるような少女の声が返ってきた。
「ヤールシュが来たぞ!」
 きゃあっと黄色い歓声があがり、荷馬車のひとつがバタバタと騒がしくなる。
「ヤールシュ! こんにちは!」
「王子さま、新しい衣装を見る?」
 荷馬車の窓や御者台から、若い女性の顔がいくつも現れたが、
「あんたたち、いいから手を動かして!」
 ひとり顔を見せない少女の声が、ぴしゃりと喧騒を制した。


「おっと、だいぶ殺気だっとるようだ」
 おっかなそうに首をすくめたマルテクに、ヤールシタもつられて笑顔になる。
「ごめんヤールシュ、今いそがしいから!」
「かまわず続けて、ウージー。大変だなあ。布地は足りるの?」
 言葉の最後はマルテクに向ける。王宮でのかしこまった話し方も、すっかり少年らしいものに変わっていた。
「ああ。他の演目のを使いまわしたりできるからな。我が一座はレパートリーの豊富さが売りだ」
 マルテクは荷馬車の側面をほれぼれと見渡した。どの荷馬車にも、色あざやかに描かれた舞台の一場面や、演目を紹介した飾り文字がでかでかと踊っている。


「マルテクおやじ、よその土地では、現代に起こった出来事を題材にしたノルテもするんだろ?」
 ヤールシタも並んで車体を見上げた。
「見てみたいなあ」
「この地では自粛しているよ」
「でも、首が飛ぶなんてことはないだろう?」
 マルテクは短い腕を組んで考え込んだ。
「それはそうだろうが、観客にウケが悪いことは確かだ。王さまはじめ、ここは信心ぶかい人が多い土地だからね」
 ヤールシタはふん、と息をついた。
「そうだなあ。一番ウケるのが神話劇だもの」
「神話劇と言えばヤールシュ、お城の書庫をあたってくれたかい?」
「そうそう」
 ヤールシタはふところをゴソゴソと探った。
「やっぱり僕の記憶は確かだったよ。うんと小さいころに、バージョン違いの写本を見た覚えがあったんだ」
 マルテクは、ヤールシタが取り出した薄い冊子を受け取り、パラパラとめくった。
「うんうん、これはいい。なかなか面白い展開にできそうだ」
「じゃあ、今度の城での公演は、これでやってくれるね?」
「おう、任しとけ」
「マルテクおやじ、あの……城から何か言って来なかった?」
 マルテクの目は、すでにあるページに釘付けになっている。
「何かって?」
「一座の人たちを取り調べたりとか」
 マルテクは手に持った冊子を取り落としかけた。
「お前、まさかこれは持ち出し禁止の本なのか? そんなのは使えんぞ」
 ヤールシタは慌てて首を振った。
「違う違う、台本はちゃんと司書に許可を取ってきたよ。何もないならいいんだ」
「うむ、ではしばらく貸してもらうよ。よーし、これはそうだな……
 小さな手帳を取り出してあれこれ書き写しながら、ぶつぶつとつぶやき始めたマルテクを残して、ヤールシタは草地を立ち去った。


 ヤールシタが雑木林を戻っていくと、向こうからやって来るエストブと目が合った。
「あ」
 エストブは一瞬立ちつくし、表情にちらとかげりを見せたが、すぐにきびきびと歩み寄った。
「殿下、やはりこちらでしたね」
「うん。ウージーに城から何か釘を刺してきたかと心配したが、大丈夫だったようだ」


 エストブは激しく首を横に振った。
「陛下は、そんなことまではなさらないよ。純粋に、お前が略称で呼ばれていることだけを心配されたのだ」
 ヤールシタは木立の高い枝をにらみつけた。
「以前の父上は、そんな迷信になんかこだわっていなかった。ヤールシュだの、ヤールシタッドだの、ふざけていろいろ呼んでくださった。母上のことも、リシアーヌとか、エリュシオンとか」
 また声が震えるのを感じて、ヤールシタはぐっと言葉を飲み込んだ。屈託なさそうに伸びをして、やれやれと腕を回す。
「一体、なんだってあんなに迷信ぶかくなってしまったのやら。過去の御前公演でも、踊り手の個人名を気にとめたことなんてなかった方だから、ウージーの素性は、俗世に詳しい侍従たちからでも聞き出したんだろうかね?まったく」
 ぶらぶらと歩き始めるヤールシタの後に、エストブも従った。


「だからって彼女との付き合いに、それ以上口をはさもうというおつもりは、陛下はお持ちでないよ。王族でも平民との結婚が禁じられているわけではないし、お前より二つ年上になるけど、ウージーはいい子だし」
 友人の言葉に、ヤールシタはぐるりと振り返った。
「おい、どこまで気を回しているんだ」
「だって、彼女から手紙をもらったんだろう?」
 エストブは努めてまっすぐに相手を見返そうとしているが、視線はヤールシタの肩のあたりをおぼつかなく漂っている。
 ヤールシタはニヤリと笑ってポケットを探った。
「読んでやろうか。熱烈だぞ」
「よせ」
 ぐいと先を歩き出したエストブを、ヤールシタは手紙を高々と掲げながら追いかけた。
「ヤールシュ、王子さまであるあなたにこんなお手紙を書く無礼を許してください。でもあなたを見ているととても不安になるのです。あなたのことが大切なのです……
「よせったら。彼女にも失礼じゃないか」
 激した口調とは裏腹に、エストブはヤールシタに立ち向かう様子は見せず、ただひたすら顔をそむけて、逃げるように進んでいく。


 ヤールシタは手紙をヒラヒラさせながら、なおもつづけた。
「私はお勉強のことはよく分かりませんが、あなたのことをとても気にかけている人の助言は、意地を張らずに聞き入れるべきです。それに、大勢の軍隊を動かすための兵法の設問を解くのに、剣士どうしが一対一で決闘したって、よい解答法が見つかるようには思えません……
 文面が進むごとに、エストブの足取りはのろのろと遅くなり、しまいにすっかり立ち止まってしまった。
 ヤールシタは満面の笑みを浮かべ、エストブの前にぐるりと回りこんだ。
「つまり、彼女は僕に、お前と仲直りしてくれって言ってるのさ」
 エストブは口を開いたが、まだ言葉が出てこない。
「ホラ、前に兵法の宿題の解き方のことで言い合いをしただろう? 我々のケンカを初めて目の前で見て、彼女ビックリしたんだ。しばらく付き合ううちに、あれが僕たちの普段の会話だって分かったみたいだけどね。僕もそのまま忘れて、もらった手紙をポケットに入れっぱなしにしていた」
「そう、だったのか……
 ようやく言葉を発した友人を、ヤールシタはニヤニヤとねめまわした。
「彼女、決闘になったら必ず僕が負けるって確信してるんだ。お前、ずいぶんと腕を見込まれているようだぞ」
「私のことが書いてあるのか? ちょっと、見せてくれ」
 エストブはつかみかかるように手を伸ばした。ヤールシタがさっと手紙を引っ込める。
「さっきまでの遠慮はどうした」
「うるさい、見せろ」
 本気の間合いで踏み込んでくるエストブを、ヤールシタはかろうじてかわしている。
「他人あての私信に興味を示すなんて、紳士としてどうかと思うぞ」
 ひらりひらりと逃げ回りながら、エストブを右へ左へ翻弄する。
「エストブ・カレンタム、そんなに気になるなら、本人に聞けばいい」


 エストブは空をつかんだまま動きを止めた。
「彼女、いま衣装づくりですごく忙しいらしいけど、お前が来たって聞いてすぐに出て来てくれたら、ちょっとは望みがあるんじゃないか?」
「なんだ、それは」
「僕がさっき行ったときは、馬車から顔も出さなかった。お前が行ったら、どうだろうな」
「年長者をからかうな」
 声には凄みが効いているが、こぶしが落ち着かなげに、握ったり開いたりを繰り返している。
 ヤールシタはひょいと片足をあげ、蹴りつける真似をした。
「僕より四つも年上なのに、じれったいんだよ」
「何も知らんガキのくせに」
「ほう、ガキには理解できないような、高尚な感情を知るに至ったってわけだ」
 いつもの調子で揚げ足を取ってはいるが、ヤールシタの表情からは、からかうような様子が消えていた。
「エストブ、行って来いよ」
 エストブはヤールシタを睨みつけたまま、荒く鼻から息を吸って、吐いた。
「ひとつお前に借りだ」
 それだけ言って、エストブは後も見ないで駆け出した。