夢の歌
  
永劫の歌(3)
「殿下、いずこにおられます。ヤールシタ殿下」
 呼びかけながら、ひとりの若者が庭園の小道を早足で進んでいく。流れるようなしなやかな動きで、よく手入れされた植え込みのあいだを次々にすり抜けていくと、マントがかすかな音を立てて葉先をかすめた。


 と、ブーツのつま先が草の中のなにかを引っ掛けた。ひゅんと風を切る背後からの気配に、若者はとっさに身をかがめる。彼の注意がすべて後方に集中したその瞬間、小道の先の低木から、黒い人影が飛び出していた。
「後ろは偽装か」
 若者は剣に手をかけたものの一瞬遅く、襲撃者に向かって体を返した時には、喉の急所めがけて必殺の一撃が繰り出されていた。のけぞりながら後ろへ飛びのく。
 相手の間合いを振り切ろうとさらに後ずさるかに見えたが、若者はふいにニヤリと笑い、両手をあげてみせた。


「スキだらけだな、エストブ。それでも警護官か」
 若者に切っ先を突きつけながら、とび色の髪の少年が勝ち誇って言った。二人の背後で、仕掛けの釣竿がもう一度ひゅん、としなってから、ポトリと倒れた。
「警護すべき相手をも常に警戒せよ、という戒めですな」
 エストブと呼ばれた若者は胸に片手をあて、相手が剣を引くと慇懃に頭を垂れた。
「肝に銘じます、殿下」


「殿下なんてよせ」
 奇襲の興奮のためか、ヤールシタは大きく肩で息をしていた。すべてをかけた一刀をかわされ、一合、二合と剣を交えることになっていたら、最初の優位などあっと言う間に押し返されてしまっただろう。
「城の者がいないところでは、ヤールシュと呼べというのに」
「いけません」
 息ひとつ乱していないエストブは、穏やかに首を振った。並んで立った二人は、同じような暗い色の髪を束ねてまとめ、黒い衣服をまとった痩身にも、どこか似通った雰囲気をただよわせている。背丈もこぶしひとつ分ほどしか違わず、遠目には双子か兄弟のように見えた。
「殿下、名を替えるのは生き方を替えること。仮面をあれこれ取り替えるように名を取り替えては、その人物に悪いさわりが」
「迷信だ。そんなもの」
 よく似ているがゆえに、そうやって憮然としてうつむくと、ヤールシタの幼さが際立って見えた。
 エストブは困ったようにほほえんだ。
「しかし、亡き母君がつけてくださった良い名ではないですか」
「子供っぽくていやなんだ」
「お前ねえ」
 きっちりまとめた髪をくしゃくしゃとかく。ため息をついて、エストブはくだけた口調に切り替えた。
「当たり前だろう、幼名なんだから」


「お前は生まれてすぐに王位継承権第一位を宣された。即位すればもう二度と口にできないと分かっている名なのだから、せめて幼いあいだだけでも愛しんでおきたいという親ごころをお前は……
 くどくどと上から物を言うエストブを、ヤールシタはうるさそうにさえぎった。
「母上は僕の即位をもう見られないし、即位は父上が亡くなってからの話だ。幼名に名残を惜しむ親がいないのだから、どう呼んだっていいではないか」
「それでもだ。愛らしい名で周囲の皆にかわいがってもらえるようにとの、両陛下の願いをだな」
 ヤールシタはほっそりしたアゴをぐいとそらせた。
「その者たちはみな、将来の僕の家臣だ。王は家臣にかわいがってなどもらわなくていい」
「ヤールシュ」
 エストブはなんとなく自分のアゴをさすった。
「風貌だけでなく不遜な態度まで私に似てきたと、皆が言っているぞ。年寄りのなかには、4つ違いの乳兄弟が兄貴風を吹かせて、王太子に悪い影響をあたえていると心配する声も」
「僕は僕の思うとおりふるまっているだけだ、誰の真似もしていない」


 エストブはやれやれと頭を振った。
「そうとも。ちっとも似ていない。私が十三の頃はもっと素直だったからな」
 ヤールシタはニヤリと口元を曲げた。
「ああ、覚えてるぞ。お前が十三というと、初めての園遊会で真っ赤になりながら、ダンスの相手の足を豪快に蹴っ飛ばしていた頃だな」
「こいつ」
「やるか」
 目を輝かせながら同時に身構えた二人だったが、エストブが年長者らしく間合いをそらした。
「とにかく、陛下がお呼びだ」