夢の歌
  
永劫の歌(16)
「恥ずかしいな。舞い上がった若造の言うことは」
 エストブの腕にすがって、ウージーが泣いている。エストブは妻を支えながら、あたふたと髪をなでつけた。
「実際に一座と旅に出てみると、私にできることはさらに限られていたよ。剣だけではどうにもならないこともたくさんあった」
 手紙は、書き終えてはまた思いついて書き足し、を繰り返したのか、余白が残り少なくなるにつれて字を小さくしながら、あれこれと走り書きが付け足されている。


「もう一通の手紙は父に渡してください。陛下にもお手紙を書こうとしたのですが、どうにも言葉が見つかりませんでした。エストブが伏してお詫びしていると、伝えていただくしかない。御世が末永く続きますように。当面の問題はもう大丈夫そうだよな? あのノルテに託したお前の気持ちを、陛下はお分かりくださったのだろう? 王妃の死から立ち直って、またお前をヤールシタと呼んでくださるよ」


「うう、陛下に直接のお手紙を書かずにおいて本当によかった。複雑な事情があったのも知らずに勝手に決め付けて……
 エストブは片手をひたいにあてて、ぶるる、と頭を振っている。王さまが言った。
「皮肉にも、父は母の死で、自分に王としての資質が備わっていることを確信したのだそうだよ」
 驚いて向き直ったエストブに、王さまは続ける。
「辺境の騒動が一応片付き、聴聞僧と話してから、父はピタリと愛称を口にしなくなった。これからは言葉の力を慎重に扱い、王としてのけじめを大事にしていこうとしたのだね。そんな矢先、母が突然病に倒れたんだ」
 エストブはじっと王さまを見つめた。
「あれこれと異なった名を彷徨ったあとで急に本来の名に戻ったことが、王妃の運命を狂わせたと? まさか、そんな」
「父はそう信じていた」
「しかし、そんなことがあるのか? 王の力は大地に命じるだけのものだろう?」
 王さまはどちらとも言わず、ただ首を振った。
「今でもそれは分からない。だが、あの公演の日私は固く誓わせられた。王の力で名を呼ぶことを、人であれ物であれ決して軽く考えてはならぬと」


「陛下はそのようにして、信仰王となられたのね」
 アリスが王さまの背中に手を回した。
「おいたわしいことだわ」
 王さまはじっと視線を落としたまま、つづけた。
「結局、父は二度と私を幼名では呼んでくださらなかったよ。たったひとり手元に残った息子を、これ以上なにか特定の名で呼ぶのは恐ろしいと」
「お前を失いたくなかったのだね。王妃さまをとても愛しておられたのだな」
 同情にあふれたエストブのまなざしを、王さまは小さく微笑んでいなした。
「私としては誤解が解けてスッキリしたよ。父が私の幼名を避けるのは、母の思い出を遠ざけたいからだとばかり思っていたから」


 手紙の端をランプのほうに傾けて、アリスは小さくなる文字を追った。
「もう行かなければ。陛下とのお話は長引いているようだな。出来れば顔を見て直接渡したかった。立派な王太子となられますよう。どこにいてもあなたの忠実なる、エストブ」
 アリスは手紙をたたんで胸に押し当てた。
「素晴らしいお手紙ですわ。希望と思いやりにあふれて」
「ああ、いや、お恥ずかしいかぎりで。おい、それでこの手紙がなんなんだ? 私に冷や汗をかかせるためだけに、これをずっと持っていたわけじゃないだろう?」
 すっかり困惑しているエストブに、王さまは笑いかけた。
「感謝しているんだよ、エストブ。このおかげで私は、サスキアと駆け落ちせずに済んだようなものだ」
「ヤール、いや、陛下」
 エストブは口ごもりながらアリスのほうをちらりと伺った。アリスは向き直った王さまに手を取られている。
「私と同じことをしたら、ますますカレンタムの放蕩息子の悪影響だと言われるから? 私の評判を守ってくれたのか?」


「違うよ。お前の手紙は、誰かに必要とされるとはどういうことかを教えてくれた」
 王さまはそれぞれの手でしっかりとアリスの両手を握った。
「王国が私を必要としているほどには、サスキアは私を必要としていなかったよ。【歌い手】として彼女が残していってくれる歌を受け取る以外、私がサスキアにしてやれることは何もなかったんだ。私はそれが悔しくて、なんとかして彼女を独占しようとしていたのかも知れない」


「エストブがウージーにしてやれたようなことは、私はサスキアにしてやれない。エストブの手紙がそう教えてくれなければ、私は城もなにも捨てて彼女と逃げていただろう。もしそうしていたら」
 言いながら目を閉じると、王さまの眉間にわずかな苦悶が走った。
「サスキアはいずれ霞のようにかき消えてしまったことだろうとしても」
 アリスはじっと顔をあげて聞いている。
「王位を去るか、追われるかして、私がどこで野たれ死ぬことになったかは分からないが、君主の無責任な行動は王国に混乱を招き、国土は荒れ、子供が夢に見てまた来たいと望むような国ではなくなっていたかも知れない。そうなったら、アリスも、トビーも……
 王さまはノルテの一節を引いた。
「“私の力は限られている。私はただ花園のあるじ、それだけだ。ならば持てる力のすべてを尽くし、ただ花園に仕えよう”」