夢の歌
  
境い目の空(8)
 謁見の間は静まり返っていた。猫がそっとアリスの肩に手を置いた。
「あなたが“赤い風船 夕焼け空に”と歌ったところはね、本当は“朝焼け空に”なのですよ」
「そうなの ……
 アリスは力なくうなだれた。
「歌詞としては“夕焼け”のほうがしっくり来たんだろうなあ」
 街の人たちがいたわるように言葉をかけた。アリスは唇を噛んだ。
「“翌日の朝焼け”を思い描くことが、ここへ戻ってくるコツだったのに」
 サスキアの無念が、アリスには自分のことのように身近に感じられた。
「きっと、どうしてそこを“朝焼け”にしたのか、忘れてしまったのだね」
 誰かが言い、アリスはビクリとして顔をあげた。
「ねえ、じゃあ私も? いつか忘れてしまうの? 信じられないくらいきれいな歌声で歌えたことも、ぼよぼよの気球で空を飛んだことも?」
 ひとりひとりを順ぐりに見回すアリスに、皆悲しげな笑顔を返した。
「そうかも知れないね」
「でも、サスキアさまは陛下に作った歌を、ほぼ正確に、あっちの世界でも覚えていられたじゃないですか」
「きっとあなたもあっちで、歌が得意な女の子になるわ」
「空を飛ぶのが好きになるかも」
「あなたのパパさんには、どうしようもない風船好きの女の子だと思われてますよ」
 猫が言うとみな笑顔になったが、アリスは怯えた表情のまま立ちつくしていた。
「そして、ここにこんな世界があったなんてことは、きれいに忘れてしまうのね」
 震える声で、ずばりと言い捨てる。
 人々は困ったように顔を見合わせたが、やっきになって慰めようとはしなかった。アリスを囲んで、静かに立っていた。
「私たちは覚えているよ」
「会えなくなるのは寂しいけどね」
 あやすように最小限の言葉をかけ、手の届く者はそっと肩に触れた。
「こんな言葉があるの。“【歌い手】は、歌のほかに何も残さない”」
「でも、残していってくれるその歌が、私たちにとっては何ものにも代えられない喜びなのよ」
 アリスはうつむいたまま、ずっと首を振っていた。
「思い出したの。サスキア・オスターデは旅行ずきで、オランダの自宅にはほとんど腰を落ち着けることがなかったって。仕事以外でもたくさんの国を旅して、行ったことがある国でも、いろんな地方を丹念に訪ねてまわったんですって」
 アリスは胸を押さえながら顔をあげ、皆を見回した。
「きっと、行きたい場所があったはずなのに、それがどこなのかどうしても思い出せなかったのよ。そんなの …… そんなの悲しいわ」
「さあ、泣かないでおくれ」
 王さまが手をさしのべてアリスの頬をおおった。
「そうしてあちこち旅することで、彼女の人生は実り豊かなものになったはずだよ。私の知っていた彼女ならきっとそうだ」
 アリスはしゃくりあげながら、こくりとうなずいた。
「うん。レコードの曲は、どれもとっても優しい歌声だった」
「そう」
 大人しく涙をぬぐってもらいながら、アリスはふと王さまの指輪に目をとめた。
「これは …… 星とベルフラワー?」
 大きな印章部分のデザインを指さす。
「ああ、王国の紋章だよ」
「図案化されてるのによく分かったね、星とベルフラワーだって」
 アリスはしゃっくりを飲みこんで、人々を見回した。
「サスキア・オスターデの歌にあったの。アルバムに入ってた別の曲よ。ベルフラワーの花園に、星が流れてベルを鳴らすっていう」
「わあ」
「本当?」
 皆の顔が一斉に明るくなった。
「それは、王国の成り立ちですよ!」
 王さまも目を輝かせてうなずいている。
「いつだったか彼女に話してやったことがある」
「ここではそんな曲は聞いてないわよね、私たち」
「あっちで作った歌なのに、ちゃんとここの事が歌われてる!」
 どっと沸きかえった一同につられて、アリスにも笑顔が戻った。
「パパたちは、なんの暗喩なのか分からないって言ってた。でもきれいな歌だって」
「そうかあ」
「ねえ、私のことは?」
 猫が浮き浮きと声をかけた。
「どれかの歌に出てきます? フロックコートを着込んだちょっとオシャレな猫、なんて」
 アリスは少し考え込んだ。
「ええと、なかったと思うわ」
「そうですか ……
 猫がガックリと肩を落とし、アリスは慌てて言った。
「あ、ちゃんと調べてみるから。アルバム未収録の曲にあるかも。なんせ私が生まれる前に亡くなってた人だから、全部の曲を知ってるわけじゃないのよ」
 アリスから泣き声の気配がすっかり消えた。人々はホッと緊張をといた。
「ねえ、次はその歌を聞かせてちょうだい、ベルフラワーの歌」
「せっかくだから謁見バルコニーで。外の皆にも聞かせたいし」
「いいわ」
 笑顔を交わしながら、アリスを囲んだ一同はバルコニーへと移動した。


「どう思う? 猫よ」
 明るいバルコニーで、アリスがゆったりとした旋律を歌い始めた。
 王さまは謁見の間の端近で、アーチの柱にもたれながら見つめていた。
「あの子は、アリスは …… サスキアの」
 傍らに猫が控えていて、わかっている、というようにうなずいた。
「あの子が生まれたのがあちらでのサスキアさまの死後ということなら …… はい、あり得ます」
 王さまは大きく息を吸い込み、震えるため息をついた。猫は素早く続けた。
「ただ陛下、なんの証拠もありません。確かめようもない前世のことなど持ち出して、あの子をこれ以上混乱させては」
 王さまは苦しげに首を振った。
「証拠など、あの声がなによりの …… いや、わかっている。私も“あなたなんて知らない”と何度も言われるのはつらいよ」
「はい。彼女には、アリスとして全うすべき人生があるのですから」
 王さまは答えず、目を閉じて歌に聞き入った。
「しかし陛下、サスキアさまはちゃんと戻ってきてくださったのですよ」
 王さまはぱちりと目を開いた。
「そもそもあの子が【境い目の空】を夢に見られたのも、サスキアさまだった頃の記憶があったからに決まってるではありませんか」


 王さまは長いあいだ動かずにいたが、静かに息を吐いて、彫刻のほどこされた柱に体を預けた。
「猫よ、お前はその場の思いつきで、時々いいことを言う」
 猫は耳をぷるんと振り、うやうやしく頭を下げた。



境い目の空編■おわり
第一部終了です。お付き合いありがとうございました!