夢の歌
  
境い目の空(7)
 アリスは侍従たちのあとから謁見の間に入った。
「サスキア!」
 バルコニーで見た背の高い男性が、長い衣のすそをひるがえしながらアリスに駆け寄った。
「戻って来てくれたのだね、おおサスキア!」
 ひっさらうようにして抱きしめると、ふわりと床に下ろす。アリスの顔にしみじみと見入っては、また強く抱きしめた。
「姿を変えているのか。しかし私にはわかる、君だねサスキア!」
 アリスは振り回されてクラクラしながら両手で男を押し返した。
「違うわ、私はサスキアじゃないわ、アリスよ」
「いや、きっと忘れているだけだ、ほら私だよ!」
「あの、あの、陛下」
 広場からついて来ることを許された人々の中から、猫がバタバタと進み出た。
「この娘はサスキアさまとは違います。顔がぜんぜん違うし……子供だし」
 若い王さまは険しい目つきで猫を睨んだ。
「猫よ、あちらの世界から【境い目の空】を通ってここを訪れるのは、人間の見る夢の幻影なのだろう? 実際の姿とは違っても、夢の中なのだからそのへんは自由なのだよ、きっとそうだ」
 つぶやきながら、猫からさえぎるようにしてアリスを引き寄せる。
 アリスはたっぷりした衣の中でもがいた。
「違うわ、私はあっちの世界でもこんな姿よ」
「しかし」
「あなたには会ったことないわ、悪いけど」
「陛下、あの、姿はですね」
 猫は言葉を探しながら、もどかしげに両前脚を差しのべた。
「時おり、本来の自分とはまったく別の姿になった夢を見ている人間も参りますが、そういう訪れは、たいてい一度かぎりです」
 単語ごとに身振りをまじえ、肉球のある前脚がさまざまな仕草をしてみせる。
「この娘はこの姿で二度、ここに現れております。となりますとその姿は、その娘本来の姿でありまして」
「しかし……さっき歌ったあの歌は、君が私のために作ってくれた歌ではないか、サスキア」
 王さまはアリスの両肩をしっかりとつかんだまま、なじるように言った。
「確かに歌詞が少し違ったが、無理もない。長い時間が経ったのだろうから」
 ひとりで深くうなずいてはアリスを見つめる。アリスはじりじりとあとずさった。
「君が来なくなってからというもの、あの珍しい【ぼよぼよ】さえすでに二度も流れ着いているんだよ。ひとつふたつとしぼんでいくのを眺めながら、ずっと君を待っていたんだ、私は」
 王さまはよろよろと迫り、怯えるアリスの肩にほとんどすがるように歩いた。
 侍従たちがうろたえながら取り囲む。
「陛下、あの歌は、きっと猫たちがこの娘に教えたのでございましょう」
「そうでございますよ。異国からきた者にあの歌を歌わせれば陛下がお元気になられると、浅はかながら気を回して」
「あの歌は、違うわ!」
 アリスは大きく身をよじって王さまの手をふりほどいた。
「あの歌はパパとママが大好きで、家にレコードがあるのよ。何度も聞かされたから覚えてしまったの。そうか、あなたのサスキアは」
 アリスは王さまを見つめた。
「サスキアは、歌手だったのよ。あっちの世界でレコードを出したんだ。サスキア・オスターデ、だったかな、名前 ……
 言いさして目で問いかけると、王さまは凍りついたように黙りこんでから、低い声を絞り出した。
「苗字までは、聞いていなかった。サスキアとしか知らない」
 伸ばしかけていた手をだらりと下ろす。
「ええと、ちょっと待って。オランダのシンガーソングライターで、全欧ヒット曲をたくさん出して」
 アリスは古いLP版ジャケットのプロフィールの文面を懸命に思い返した。
 人々が首をかしげる。
「しんがーそんぐ?」
「ぜんおうひっと?」
「作った歌が大人気になったってことよ。コンサート活動はヨーロッパだけじゃなく、世界じゅうのありとあらゆる国で……あれ? でも」
 アリスはふと口元に片手をあてた。
「あれは、家にあるのは……追悼アルバムよ」
「あるばむ?」
「えっと」
 アリスは、ウソをついてあげたほうが親切だろうかと一瞬迷い、けっきょく黙り込んでしまったが、
「追悼と言ったね」
 王さまが静かに言った。
「そうか。彼女はもう、生涯を終えていたのだな」
 つぶやいて、王さまはじっと立ちつくした。
 長いローブのすそを引きながらゆっくりと歩き、書き物机のところまで行くと、王さまは引き出しから一枚の紙を取り出した。
「私が描いたんだが、かなり似ているんだよ」
 紙には、庭園の石のベンチに腰掛けて、こちらを見ている若い女性が描かれている。アリスは激しく首を横に振った。
「でも、そんなはずないわ。きっと人違いよ。ジャケットの写真はもう……おばあさんだった」
「そうか。幸せそうだったかい?」
 かみ合わない話にじりじりとして、アリスは神経質に片手を振った。
「だって、王さまと別れたあとで亡くなったのなら、王さまと同じくらい、まだずっと若いはずよ、そうでしょう?」
 アリスは絵の中の女性と王さまを見比べた。子供の目からは、二人ともそう変わらない年齢に見える。
「きっと人違いだわ。この歌は有名だし、たまたま同じ名前の」
「いや、人違いではない」
 王さまは静かに首を振っていた。
「彼女は夢の世界に戻って来られなくなった、そういうことだ。大人になったんだよ」
 周りで人々も深くうなずいた。
「大人になったら、眠っているあいだどんな夢を見ていたかなんて、目が覚めた時にはぼんやりとしか覚えていないものなのよ」
 アリスがきょろきょろと見回すたび、目が合った者は力なくほほえんだ。
「夢の内容を忘れてしまったらもう、次の日に同じ場所を心に念じて眠りにつくことはできないからね。ここへ戻って来ることが、だんだん難しくなる」
「キミは、あっちの世界のすーぱーのいべんとで【ぼよぼよ】を送ってくれたあとも、ベッドに入るまで、はっきりとこっちでのお祭りの計画のことを覚えていたんだね。だからちゃんと、お祭りの当日にやって来られたんだよ」
「あっちとこっちでは、月日の流れが必ずしも連動していないのです」
 そう言って、猫がヒゲを動かしながら進み出た。
「あっちの人間が夢の中で、こちら時間のどの時点に出現するかは、全く本人次第なんです。あなたがあっちで、ここでの冬を思い描いて眠りにつけば、私たちが次にあなたに会えるのは、数ヶ月後ということになってしまうんですよ」
「彼女は……サスキアは」
 王さまが沈んだ声で続けた。
「いつも別れたすぐ次の日にはやってきてくれていた。コツがあると言ってね。私たちと交わした会話の内容をよく注意して覚えておくのだそうだが、そのとき、周りの光景と関連づけて記憶するのだと。そしてあちらの世界で眠りにつく時、一番さいごの会話の場所を、朝焼けのイメージに置き換える。“翌日の朝だ”と念じながらね」
 王さまは、夢見るようなまなざしを遠くに投げた。
「初めのころは、あちらの彼女が目覚めて夢が終わり、姿がかき消えたと思ったら、すぐさま次の日の彼女が現れていたものだがね。別れた瞬間に戻れるように念じていたそうだから。しかし、それではこちらの住人が眠るヒマもないと、気を使ってくれたんだ。なんと言っても貴重な稀人の訪れだからね、誰もがいられるかぎり側にいたがった。もちろん私も……
 王さまはしばらく黙りこんでいたが、やがて静かに顔をあげた。
「しかし、それも次第に間遠になっていった。彼女はそうやって、あちらの世界での人生を全うしたのだ。私にとっても嬉しいことだよ」