境い目の空(6)
乗り込むとき、カゴがふわんと水平に揺れた。カゴに自分の体重が乗ったのだとアリスは気づいた。
「ヘンな感じ。【境い目の空】でなら体重がないみたいに雲の上を歩けたのに」
気球はゆっくりと地上を離れた。ぐらりと揺れるたび、たくさんの風船がぼよぼよと音をたててぶつかり合う。
「それで、ぼよぼよっていうのね」
アリスはカゴのふちをつかんでクスクス笑った。
「息を合わせて」
「ゆっくりな」
人々は声をかけあいながらそろそろと綱を繰り出した。気球は高度をあげていき、広場がだんだん遠ざかっていく。
「準備はいいー?」
呼びかける声に思わず下を見たアリスは、地上の眺めの鮮明さに息を飲んだ。はっきり表情まで見える小さな人々や広場の石畳など、目のくらむ光景をなるたけ見つめ過ぎないようにしながら、ただこくりとうなずいてみせる。
「花火の合図と同時に、だよ!」
カゴの中には、アリスの足元いっぱいに、吹き流しの垂れ幕が詰め込んであった。アリスはかがみこんで布の端をぐっとつかんだ。
ぱ――ん!ぱぱ――ん!
青空に景気よく花火があがる。
「それ!」
「よいしょ!」
ひとりでいちいち掛け声をかけ、虚空にたったひとり浮かんでいる恐怖をはねのけながら、アリスはひとつ、またひとつと幕をカゴから放り出した。
「わあ〜!」
足下の広場から歓声があがった。ふわふわ浮かぶカゴから光り輝く布があふれ出し、ゆらぎ、ふくらみながら風に踊る。
アリスはふうっと息をついて立ち上がった。カゴのふちに手を載せると振動が伝わって、たなびく吹き流しが安定していくのを感じる。
「さあ、何を歌おうかな」
心が答えを出すのを待つように、アリスは目を閉じた。
そして、歌声が空を舞い落ちていった。
青い風船 夢に 浮かぶ
白い風船 指を すり抜けて
ささやくように始まった第一声が、細く遠くどこまでも伸びていく。
黄色い風船 雲の かなたへ
赤い風船 夕焼け 空に
溶けて ふわりと
声は広場じゅうに輝く軌跡を描いた。どんな奥まったすきまにも忍び入り、風と空気を自在に共鳴させ、あとから追っていく声とからみ合い、折り重なって響き合った。
青い風船 知らない 国の
白い風船 知らない 森へ
耳と頭蓋を満たしていく音の調和に、誰もが深いため息をついた。
アリスが浮かんでいる空の高さに、王城の謁見バルコニーがあった。歌声はバルコニーを抜けて回廊を漂い、奥まった一画を見つけて流れ入った。
重厚な木彫の扉が流れをせきとめたが、扉そのものも、歌声に震えて共鳴した。昼間から分厚いカーテンが引かれた暗い室内に、幾重にも重なってなお透明なハーモニーが、光を放つように溢れた。
黄色い風船 知らない 言葉
部屋の中でもひときわ闇の濃い一角で、人影がゆっくりと起き上がった。
赤い風船 知らない 人から
なつかしい あなたに
変わる ふわりと
「ああ、誰かいないか、誰か!」
声に応えて、王の私室に侍従が何人も駆けつけた。
「おそばに、ただいま」
「陛下、どうなされました」
「あの、あの声は」
「広場で領民がなにか始めたようで」
「お耳にさわりましたか。行ってすぐにやめさせましょう」
「違う……ああ、違う、そうではない!」
取り乱すあまりか思うように言葉が出ない。
「連れてまいれ、【歌い手】を、今すぐに……!」
「おーい、降ろすよ!」
「揺れるから、つかまって」
下からの呼びかけにアリスは我に返った。カゴのふちから見下ろすと、人々のいく人かはすでに綱に取り付いている。
「なんだろう?」
ゆらり、ゆらりと引き降ろされるうち、アリスは広場にいる見慣れない一団に気づいた。立派なお仕着せを着た彼らは、猫やお祭りの主導的立場の人たちと話しながら、さかんに城のほうを指し示している。
ふと見上げたひとりが高い場所を指さし、声をあげた。
「王さまが!」
「バルコニーにお出ましだ!」
「【歌い手】をバルコニーの高さに浮かばせたのは、正解だったね!」
アリスも皆の視線の先をたどった。
せり出した謁見バルコニーに立って、気球を見つめている背の高い人物の、涙に濡れた目の色までが、空からは見えたような気がしたが、調子よく引き降ろされて高度を下げていくうち、表情はぼんやりと遠くなった。