夢の歌
  
境い目の空(4)
 集まった人々は顔を見合わせた。
「逃げたかしら、あの猫」
「やっぱり、ハッタリだったわね」
 自分たちだけでひそひそと言葉を交し合う。
「おまかせあれ、陛下のためなら百でも二百でも【ぼよぼよ】を集めて参りましょう! なんて張り切ってたけど」
「百なんて、どう考えたってウソくさいわ。今思えば」
 立ち話の輪のあちこちで、誰もがやれやれと肩をすくめた。
「でもこっちは上出来」
「うん、なかなか」
 アリスはなぜか賞賛のまなざしを集めている気がして、どぎまぎと人々を見回した。
 そのとき、広場の端で動きがあった。
「あ、猫だ」
「来た来た」
 人垣が割れ、通り道ができる。
「【ぼよぼよ】は集まったの?」
「はあ、あの」
 猫はもごもごと口の中でつぶやきながら、両の前脚を胸の前で抱えるようにして人々のあいだを歩いてきた。
「【あっちとこっちの境い目の空】に浮かんでたやつを五つ、やっと捕まえはしたんですが……
 しょんぼりと差し出した前脚のうえには、五色の風船の残骸がべろりと載っていた。
「なんてこと!」
「森へ降りるとき木の枝にひっかけて割ってしまいました」
「貴重な【ぼよぼよ】を ……
「もっと気をつけんか!」
 非難の嵐の中、猫は耳を倒してびくびくとあとずさっていく。
「木の枝にひっかけてというよりは、枝にひっかかった糸をはずそうとして自分の爪で」
「爪!」
「だから獣は!」
「あの、猫さん」
 アリスは割り込むように声をかけた。
「これってさっきの風船よね?」
 猫はびくんとアリスに気づき、おどおどとうなずいた。
「そうです。こちらでは【ぼよぼよ】って呼ばれています。この【ごむ】という材質の正体がどうしてもわからなくて、我々にとっては貴重品なんです」
 機械的に説明を並べたててから、猫は力なくヒゲを垂らした。
「たった五つじゃ、どっちにしろ計画には足りなかったですよね……
 ため息とともに、長い尻尾が脱力する。オレンジから白に変わっている尻尾の先が、石畳にぽとりと落ちた。
 集まった人々も暗い表情で息を吐いた。
「こないだ最後の【ぼよぼよ】がしぼんでしまったから、陛下はガッカリしておられるんだ。五つ六つじゃとても」
 皆振り返ってお城を見あげる。謁見用バルコニーには誰もいない。
「ああ、これが成功したら最高の贈り物になったのに」
 誰かが言って、別のひとりが大判の紙をスルリと広げた。アリスがのぞきこむと、端の丸まった紙面には、図解入りの計画書のようなものが描かれていた。


 図の真ん中に、お椀型のカゴが描かれている。
 カゴにはたくさんの風船が取りつけられていて、気球のように空に浮かんでいる。
 縄が長くのびて、風船つきのカゴを地上につなぎとめている。
 派手な垂れ幕が、カゴの四方から垂れ下がって風になびいている。


 横から手が伸び、カゴのからっぽの部分を指さした。
「ここにあなたが乗るのよ」
 アリスはぽかんとして人々を見つめた。
「私が? なんで」
「【歌い手】だからね」
「う、歌なんか歌えないけど」
「いいんだよ。もう関係ないから。お祭りの計画は白紙だ」
 計画書はくるくると丸められてしまった。沈んだ雰囲気。
「えーと、ここって面白いところね。あの雲の平原とか」
 アリスはなぜか申し訳ない気持ちになって、慌しく話題を探した。
「あそこにはよく風せ、ぼよぼよが飛んでくるの?」
「ああ」
「そうだよ。【あっちとこっちの境い目の空】には、あっちの世界から迷い込んだいろんな物が浮かんでる」
「この猫みたいに、獣と人間の境い目のような生き物は、【境い目の空】の雲の上を自由に歩きまわれるの」
「はい」
 自分の話になったとばかり、猫はずいと輪の中へ進み出た。
「【ぼよぼよ】はほんのたまにしか飛んではこないのですがね。【境い目の空】で異国の珍品を集めて、王さまに献上するのが私の役目で」
「珍品ってほかにどんな?」
「仲間とはぐれた渡り鳥や、糸の切れた凧、金属の板がたくさん突き出たぶかっこうな鉄のかたまりやなんか、私では【境い目の空】から運び下ろせないような、大きなものもありましたが」
 猫は両手で大きさを説明しようとして諦め、ふいと肩をすくめた。
「あとは、夢の中から【境い目の空】に出ちゃったトンマな人間ですとかね」
「あなたのことよ」
 アリスは目を丸くした。
「じゃあ私、いま夢を見てるの?」
「そういうことです」
「わあ、夢の中で“これは夢”って分かるなんて初めて!」
 人々はクスリと笑い、顔を見合わせた。
「のんきな子だな」
「ふわふわ飛んできちゃうだけのことはあるわ」
 沈んでいた空気が少しなごんだ。
「ねえ。ちょっと行って、私があっちの世界から、ぼよぼよを持ってきてあげましょうか」
 アリスは勢いこんで言ったが、誰もが残念そうに首を振った。
「あなたは夢の中からここへ来たんだもの」
「たとえ【ぼよぼよ】をたくさん持ってベッドに入っても、実際の【境い目の空】に出現するあなたは手ブラなのよ」
 猫がまた一歩前に進み出た。
「人間の夢は例外ですが、【境い目の空】まで飛ばされてくる物は普通、あっちの世界でも空に浮いていられるものがほとんどです。強い東風が吹くこの時期は特に多くてですね」
 皆をぐるりと見回しながら、猫がリズミカルにヒゲを揺らす。深く考えこみながら、アリスも同じ拍子でうなずいていた。
「そうか。風船も渡り鳥も凧も、境い目の空までは自力で飛んで……っていうか、飛ばされてくるのね」
「はい。まれにですが白いハトも迷い込んできまして、そういう時は【ぼよぼよ】がまとめて十も浮かんでいたりするので、吉兆として喜ばれています」
「そういえば【ぼよぼよ】がたくさん流れてくるときは、決まって白いハトも一緒だね」
「なんでだろう。君なにか知ってる?」
「あっちの世界でのしきたりかなにか?」
 アリスは首をかしげて考えこんだ。
「白いハトに、たくさんの風船……そうか。大きなイベントでよく飛ばすアレね。遠くまで割れずに飛んだいくつかが、こっちまで流されてくるわけだ」
「いべんとって?」
「まあ、お祭りみたいなものよ……そうだ!」