夢の歌
  
境い目の空(2)
 どこまでも続く雲の上を、アリスはパジャマ姿で歩いていた。
「わー、猫だわ。二本足で歩いてるわ」
 アリスの前をせかせかと歩いているのは、オレンジ色のシマ猫だった。ずんぐりしているが、背丈はアリスと同じくらいある。
「服を着てるわ。それに歩いてる」
 猫がはいているズボンは、まっすぐな折り目の入った上品なフラノ地。フロックコートもきちんとした仕立てで、猫背にピッタリ沿っている。
 猫が横目だけでアリスを振り返った。
「さっきからそればっかり。歩いちゃいけませんかね?」
 横柄な口調で言って、ヒゲをぴりりと震わせる。
「さあさあ。そこにも、もうひとつあるでしょう」
 猫は丸い指で雲の中を指さした。アリスは思わずハイ、と良い返事をして指示に従った。
 猫が示した先にあるのは、赤い風船だ。アリスの背丈よりも低い場所を、ゆっくり回りながら浮かんでいる。
 アリスは雲の丸みを踏んで手を伸ばし、風船から垂れ下がった糸をつまんだ。
「そう、糸を持ってね。風船にじかに触っちゃダメですよ」
 猫が後ろからのぞきこんで、アリスの手つきを確認しながらうなずいている。
 アリスは糸を持ちかえ、すでに集めた他の風船と一緒にして、猫の目の前に差し出した。
「はい、これで四つよ」
「まだまだ足りませんよ。さあもっと探して!」
 アリスはぐるりと周りを見渡した。足元に目をやると、踏んでいる雲を透かして、別の雲が青空を漂っていく様子がはっきりと見てとれる。しかし地上や、海や、ここがどれほどの高度なのかを推しはかる手がかりになるようなものは、一切見えなかった。ただ青い空が広がるばかり。
「ねえ猫さん、ここってずいぶん高いところなの? 地上がぜんぜん見えないわ」
 アリスが言うと、猫はもう先を歩いていて、振り向きもせず耳だけくいっと傾けた。
「地上はありませんよ」
 ひと言で片付け、忙しくあたりを見回しては、雲の中に目を凝らしている。
「地上がないってどういうこと?」
「ここは【境い目の空】なんですから、空しかないに決まってます」
「そうですか、決まってますか……
 アリスは手に持ったいくつもの風船を見上げ、ため息をついた。
 突然猫がぎゅっと姿勢を縮めた。雲の中の一点を見つめている。
「ホラあそこに! 白いから見逃すところだった!」
 興奮して駆け出す猫につられて、アリスも雲の上を走った。


「これで五つ。う〜ん、空がつながったときの風の感じでは、もっとあってもよさそうなのに……
 猫は難しい顔でぶつぶつつぶやいている。
「猫さんは風船が好きなの?」
 アリスは手持ち無沙汰なまま、風船のひとつをボンとこづいた。猫が飛び上がる。
「なにを! なにをするんですか〜! 貴重な宝物を〜」
 猫は声を震わせながら伸び上がり、風船の周りの空間をおろおろとあおいだ。五つの風船はぼこぼことぶつかり合っている。
「ご、ごめんなさい。でもこれくらいで割れやしないわよ」
「これはなかなか手に入らないんですよ〜、もう! こっちへ寄こして!」
 猫のふわふわの前脚がアリスの手をこじあけ、風船の糸の束をもぎ取っていった。
 仕方ないので、アリスはひとりで雲の平原をぶらぶらと歩き回った。視野の端にふと、空の青とも雲の白とも違う鮮やかな緑色がよぎった気がして、足を止める。
「猫さん、見てあそこ」
 雲のかたまりから身を乗り出すと、アリスのいる場所よりかなり下のほう、ひときわ分厚く雲の重なったあたりが、突然ぽかりと口をあけていた。雲の切れ間から、こんもりとした森の一部がのぞいている。
「地上が見えるわ! ねえ猫さん、あっちのほうへは降りて行けるの?」
 アリスは猫を振り返った。猫はアリスにかまわず低い姿勢で身がまえながら、一心不乱に雲の中を透かし見ている。
 アリスは足を伸ばして、おそるおそる雲を突付いてみた。降りていく方向へ伸びる雲も、しっかりとした踏みごたえがある。アリスは一歩ずつ足場を確かめながら、次第に猫から離れていった。