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(9)

「ああ!」
 自分の声で目が覚めた。
 見えるものがすべて白い。空気まで白い。白い世界。
…… 気分は」
 頭のうえから、白い誰かがのぞきこんだ。白い女。
…… 聞こえる …… ? ひどくうなされてた …… 悪い夢でも ……
 白い女の言葉は、白い霧にゆらゆらと揺れて、なんだか途切れ途切れだ。
…… 手術は無事終わって …… ずっと昏睡 ……
 手術。私は何度かパチパチとまばたきしてから、目だけで周りを見回した。
 白い世界は、病室だった。揺れる白い霧は今では少し青みがかって、ベッドまわりのカーテンになっていた。女の着ているナース服も、まっ白ではなく淡い水色だ。
 ここは病院。ぜんぶ夢だった。きっと麻酔のせい。ああホッとした。
 棒読みのような思考を追いながら、私は息をひそめていた。この安堵感にはイヤというほど覚えがあるのだ。怖い。
 ナースの声はまだ不安定に揺らめいて、途切れがちにつづいている。
…… ここがわかる? …… あなたは怪我をして ……
 やめて、なんにも説明しないで。お願い。懇願は言葉にならず、私はただうめき声をあげた。
 両手で耳をおさえようとしたが、片方の手はズキンと痛み、もう片方はパタリと胸のうえに落ちた。力が入らない。
…… だいじょうぶ」
 ナースが私の手を取り、励ますように、痛まない場所をごしごしとさすった。
…… 彼を呼んであげる ……
 そう言ってナースはいったん水色のカーテンのむこうに消え、しばらくしてから、若い男を連れて戻ってきた。
「カナ!」
 ベッドに駆け寄りながら、彼が両手を差しのべた。
「目が覚めたんだね、よかった。僕が分かる?」
 彼がまくしたてる日本語を聞いて、初めて分かった。途切れ途切れにしか理解できなかったナースの言葉は、英語だったのだ。ここはまだ英語圏で、私は帰国できておらず、あの悪夢の旅行に、夢オチは来ていない。
「カナ、僕が分かる?」
「ユウト ……
 恋人の顔を見て気がゆるんだ女のように、涙声で名前を呼んだ。
 洞窟から切り出された彩色仏画なんて、知らない。何ごともなく帰国して、つまらない日常に戻っていたいという願望を、夢に見た。そして目覚めたここが今の現実、そういうことなの? それとも、また足もとが崩れたら、今度こそ目が覚める? たずねても、彼からは答えが得られそうにないことばかりで、私はふらふらとあたりを手探りした。
 ユウトが私の手を取った。
「カナ」
 ナースは後ろへさがって見守っている。
「怪我の処置は無事おわったよ。あの高さの崖から落ちたにしては、軽くすんでる」
 ユウトは私の足首や太ももの包帯にそっと手を添え、どこの骨が折れていて、こういう処置がなされた、などと説明してから、同じ口調でゆっくりと言った。
「僕は、警官だ。あの組織に潜入して、黒幕をさぐってた」
 理解が追いつかなくて、私は彼をぼんやりと見つめた。
「やっとボスの顔を確認できた。君のおかげだよ。これで裁判に持ち込める」
 ユウトのつややかな唇が笑顔のかたちにゆるんで、すぐに引きしまった。
「君の身柄は我々が守る。マフィアに手は出させない。応援が何人も来てるから、安心して」
「ユウト」
 一番聞きたかった言葉に、めまいのような安堵が押し寄せた。今度こそ、本当にだいじょうぶだ。
 私は病室を見回した。目に見えて私の緊張が解けたのだろう。見守っていたナースが、にっこりと笑みをよこした。私もほほえみ返した。
 水色の制服がまぶしい。彼女の背後で、水色のカーテンが揺れた。ゆうら、ゆうら。誰かがカーテンを開けて入って来ようとしているにしては、ずいぶん長いあいだ、揺れっぱなしだ。ゆうら、ゆうら。めまいがひどくなっているのだろうか ……
 ある予感がして、私はつないだままのユウトの手を強く引きよせた。
 揺れるカーテンは、最後にザブンと波のようにはじけて、あたり一面を水色で覆いつくした。病室はナースもろとも、何もない空に変わった。
「ユウト、離れたくない」
 つぶやいて、私は青い空に飲み込まれていった。

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