(10)
「ああ!」
自分の声で目が覚めた。
見えるものがすべて白い。空気まで白い。白い世界。
「カナ、聞こえる?」
「ユウト」
光に目が慣れると、私はまた、同じ病室にいた。さっきと同じナースが、ベッドまわりの水色のカーテンを背に、私たちを見守っている。
ユウトがそばにいて、私の手をしっかりと握っていた。
「わかる? 処置は無事おわったよ。君はさっきちょっとだけ意識を取り戻したけど、また眠っちゃったみたいだね」
覆いかぶさるように、ユウトが顔を近づけた。私が噛み付いた覚えのある場所に赤茶けた傷があり、細いテープで固定してある。唇の端が、片方だけ笑っているように、きゅうっと吊りあがって見えた。
噛みあとがあるということは、このユウトは私に運び屋の役まわりを押しつけた男だ。正義の潜入捜査官に、こんな傷はなかった。
ユウトは恋人を力づける男の口調で、どこの骨が折れてるだのヒビが入ってるだの、かいがいしく説明してから、じっと私を見つめた。
「君のあとから飛び込んだんだよ。真剣だって分かってくれる?」
切れ切れの記憶が頭をよぎった。揺れるカーテンのような大波にもまれている。さかまく流れ、力強い腕、岸に引きずりあげられたときの、自分の体の重み。
「追っ手は …… ボスは」
つぶやいた私に、ユウトがぽかんとして、それ何の話? 夢でも見たんだね、と言ってくれるのではと、一瞬だけ期待した。ユウトはうなずいて、声をひそめた。
「僕らがここにいるってことは、連絡しておいたよ。ボスのお屋敷を黙って抜け出したけど、カナにはちゃんと僕がついてて、計画に変更はないってね」
逃げおおせたわけじゃなかった ―― ガックリと打ちのめされたが、思えばこれも、この状況なりの自衛手段なのだろう。連絡を絶って、むやみに警察なんかに駆けこもうとしていたら、病院にたどりつくまでに、どこかで組織の手が伸びたはずだ。
「僕らは、ボスの自宅よりもっと上流で、ふたりきりになれる場所を探していて川に落ちた、マヌケな恋人同士ってことになってるから、そのつもりでね」
水色のカーテンが揺れて、医師が入ってきた。場所をゆずるよう、ナースがそっと促す。ユウトは名残惜しげに立ち上がった。彼も怪我をしたのだ、片腕を痛々しく胸のところで吊るしている。
「旅行者の事故ってことで、大使館の人が、いちおう君からも話を聞きたがってる。もうすぐ来るらしい」
ユウトは医師に押しのけられながら、もう一度体を割りこませ、かがみこんだ。
「僕も同席するよ。君は、なんにも話さなくてだいじょうぶだからね」
なんにもね、と、半分だけ笑顔のかたちに吊りあがった唇が、みるみる近づいて …… 私の口はぴったりとふさがれた。
やはり、これは悪夢だ。突然そう確信した。
私はせわしなく横目を動かし、彼の頭ごしに周囲のようすをうかがった。
どんなに現実らしく見えても、だまされてはいけない。もうすぐ、淡い水色のカーテンが空に変わり、私のうえに落ちてくるはずだ。もうすぐ。
私はぎゅっと目をつぶった。
空が落ちてくるところを見ないでいれば、世界を信じつづけるフリをしていれば ――― そうすればこの夢は、夢オチを迎えずにすむだろうか。
もうどこへもオチたくないのだ。彼といっしょでなければ。
私は目をつぶったまま、唇で彼をさぐり、ユウトの現実らしさを何度も確かめた。
この夢が現実であるあいだに、私の手で、彼をこの悪夢から連れ出す。
私は目をあけ、痛む両手でユウトの頬をはさんだ。こうしてまぢかに見ると、落ち着き払った目元のあたりは緊張で引きつっている。死ぬほどおびえてるんだ。
「ユウト、いっしょに逃げよう」
何から逃げるのだろう。マフィアから? 悪夢の連鎖から? 分からないけれど、必ずコントロールを取り戻してみせる。陰険な夢オチに、“ただの悪い夢でした”でユウトを切り捨てさせたりしない。絶対に。
彼を引きよせて、もういちどキスをした。
「あー、うぉっほ」
白人の医師が、居心地わるそうに咳ばらいをした。オーケー、世界はまだつづいている。
(おわり)
お付き合いありがとうございました!
この作品はフィクションです。テロ対策が厳しくなった現在の税関がどんな風か、また、いずれかの薬品によって探知犬の嗅覚がごまかせるものなのかどうか、作者は知りません。