HOME / (7) / 小説メニュー / (9)

(8)

「落ちる夢か」
 私の暗鬱な思いも知らぬげに、教授は背中を見せたまま、のんきに言った。
「高いところから落ちる夢っていうのは、にっちもさっちもいかない状況を、一気に解決したいって願望のあらわれなんだそうだぞ」
「一気に、解決ですか」
 なるほど。私は教授といっしょに、目のまえの大きな壁を見あげた。
 公民館のような広いスペースの真ん中に、ドンとすえられている壁面は、高さは二メートルちょい、横はその一・五倍ほど。さびれたミニシアターのスクリーンぐらいある、自然岩の壁だ。洞窟から切り出された状態で、鉄製の支柱に四辺を固定され、屏風(びょうぶ)のように立てられている。
 よく表面をならされた壁面の中央には、しっかりした線描で、如来像らしきものが描かれていた。超然として左右対称な目鼻は、うたた寝の夢に出てきたニューヨークマフィアのボス、いや、ボス顔の給仕にそっくりだ。 ―― 夢の元ネタ、発見。私は笑いをこらえた。
 坐像の周辺には、たなびく錦雲(にしきぐも)や後光といった、ありがたい図像のほかに、亡者の群れや小鬼など下界をあらわす存在もたくさん添えられている。仏画の体裁をとっているようにも見えるが、表現様式は、見たこともない異様なものだ。マフィアのドンと見まごう威厳をたたえた中央坐像からして、便宜的に如来と呼んでいるだけで、なにを描いたものなのか皆目(かいもく)分かっていない。
 壁画は古来から修験場として知られる洞窟の奥に、かつての岩盤崩落に密閉された状態で、ひっそりと眠っていた。
 自然岩や洞窟の壁に彫られた仏教彫刻、いわゆる磨崖仏(まがいぶつ)というのは各地にあるが、仏画としての彩色壁画は国内ではあまり例がない。日々の滅私奉公に耐えていると、こういう珍しい現場にも呼んでもらえる。
 洞窟周辺の地盤が不安定になり、このままでは洞窟そのものが崩落するというので、壁画は洞窟をほとんど切りくずすようにして運び出された。搬出にともなうダメージを予想し、絵画修復チームが召集されたのだが、長年ほどよく密閉されていたおかげで、壁画に大した損傷は見られなかった。壁画はそのままで公開展示にも耐えられそうな、良好な状態だったのだ。
 ところが、おえらがたによる軌道修正はそうすんなりとは行かなかった。恒久的な保存計画も含めた修復作業にかかるのか、ひとまずイベントとして公開展示に踏み切るのか、国と自治体のあいだで現在も膠着状態がつづいている。まさに、にっちもさっちもいかない状況だ。
「展示か修復かで、手順が全く違うんですよね」
「うむ」
 展示するなら立てたままでいいが、修復にかかるなら、壁画はクレーンでそろりそろりと横だおしにされる。
「方針がどっちつかずのままでは、作業はこれ以上進められんだろう」
 教授は美術史が専門なので、描かれた事物の美術史的な検証が仕事だ。修復工程にはノータッチである。作業が頓挫(とんざ)しているあいだにうんと現物を拝ませてもらえるのはいいが、接写機材を建て込む許可は出ていないため、デジカメで概観をざっと撮ったら、我々はもうやることがなくなってしまった。
 絵画修復チームは、工具やら小型クレーンやら、店をひろげかけたところでまた打ち合わせに呼びだされている。工具箱もなにも開けっ放しで放置されていて、私はブラブラと歩いていき、用途も分からない道具類をあっちこっちのぞいた。
 私がひそかにあこがれていた人というのは、絵画修復士だ。中世の絵巻も、板絵も、壁画もやる。個人でも仕事をするが、大学と共同で行う修復事業になると、何人もの修復士をたばねるチームリーダーを任されていた。優秀なのだ。そりゃおえらがたの家との縁談も持ち上がるというもの。
 かつてのあこがれと幻滅の対象がウロウロする現場に来たというのに、私はもうなんとも思わなくなっていた。ヒマすぎて居眠りする始末だ。
 もう学生ではない私が教授を手伝っても、単位に色をつけてもらえるわけでも、バイト代が出るわけでもない。タダ働きはこれっきりにするつもりでいる。珍しい壁画は見たし、自分の気持ちは確かめたし、もう帰って寝たい。
 ところがこれはまがりなりにも国家的プロジェクトなので、教授のおマケである私は、教授といっしょでないと保管施設からの退室が認められないのだった。教授はこのとおりさっきから、お役所仕事に愚痴を言いつつ、お宝をながめまわす時間をダラダラと楽しんでいる。
「じれったいが、まあ仕方ない。高いところから飛びおりるみたいに、エイヤッと方針を決めてしまう、というわけにはいかんのだろうからなあ」
「はあ」
 適当にうなずきながら、私は工具箱から大きな槌(つち)を手に取った。何に使うのか知らないが、冗談のように大きい。
「もう、いっそこう、わーっと壊してしまいたくなりますね」
 槌は重さはあったが、きちんと柄をつかめば片手で扱える。そのままブランと振った。壁画の向こうはしで、教授がギョッと身をすくめたようだ。
「なんだそれは。やめてくれよ」
 うろたえた教授の声にかぶせるようにして、誰かがささやいた。
「やってみたら」
「な …… ?」
 私はその場に凍りついた。私の目のまえの壁面で、描かれた半裸の亡者のなかのひとりが、ユウトの声でしゃべっていた。赤い唇がニヤリと笑っている。
「その、わーっと壊して一気に解決っての。やってみれば」
 塗りにひびの入った口元が、言葉にシンクロしてパクパクと動いた。よくできたアニメのような動きだ。
「この夢に夢オチが来たらさあ、次の夢では、ちゃんと生身の僕で会えるかもよ」
 なにもかも見透かすような目つきが、会いたいよね? と言っている。
 私はパチパチとまばたきした。
「誘惑、しないでよ。絵のくせに」
 声に出してつぶやいてしまった。教授に聞こえてしまっただろうかと青くなる。いや、構わないのか。絵がしゃべっているということは、これは夢なのだ。
 私は槌を置き、工具箱からレンチを選んだ。支柱を組んでいるボルトにちょうど合いそうな、ゴツいやつだ。手近な結節点のひとつに、先をかくっと合わせた。
「誘惑か。いいね」
 笑いまじりの彼の声が、歌うような節まわしでつづく。
「ユウトのユーは、ユーワクのユー」
「なにそれ」
 壁画のユウトにツッコミながら、私は自分の手が、歌に合わせて軽快にボルトをはずしていくのを見ていた。支柱の一角に集まるボルトをそれぞれ完全にゆるめてしまうと、壁面ぜんたいの重心がメリメリとかしぎはじめるのが分かる。
「おいっ、何をやって ……
 悲鳴のような声に振り返り、私はやっと教授の顔を直視した。教授はよろめきながらじたばたとこちらに駆けてくる。そんな、慌てなくていいのに。これは夢なんだから。
 顔をあげると、錦雲たなびく神話めいた空がゆっくりとかたむいて、頭のうえに落ちてくるところだった。

HOME / (7) / 小説メニュー / (9)