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(7)

「ああ!」
 自分の声で目が覚めた。
 公民館のような広い空間に、声の残響が小さく尾を引いている。
「はああ ……
 私は深く、大きく息を吐いた。座っているパイプイスがギギ、ときしんだ。
「長いってば。最後のだけ、長い ……
 自分の声がかすれている。口のなかがカラカラだ。
「どうしたの」
 背後からの声に、心臓がはねあがった。ユウト、と心で呼びかけた一瞬あとに、理解が来た。このだみ声は違う。深みのあるユウトの声とは、似ても似つかない。
「なんでもありません。教授」
 げんなりと答えながら、私は力なく立ちあがった。声の主はうちのボス …… マフィアのボスじゃなくて、人づかいの荒いほう、社長イスの並ぶオフィスの持ち主だ。同時に、社長イスの供給もとの大学教授でもある。
 あのオフィスは、大学の予算が出ない私費研究のための、教授個人の資料室だ。
 やりくり上手のこの教授は、自腹の研究ではもらいものか中古品しか使わないという、しみったれたポリシーを持っていた。おかげで資料室は、型おちのパソコンや奥行きの合わない書棚、かさばる作業チェアなどによる不協和音のカオスだ。豪邸を統一感ある内装でまとめていた、あっちのボスとは大違いである。
 こちらへ歩いてくるずんぐりした姿から、私は微妙に視線をはずしていた。
「ちょっと寝てしまって」
「まだ時差ボケかね?」
「はあ」
 傷心旅行もどきのひとり旅から、私は無事に帰国した。犯罪に巻き込まれることもなく、ユウトみたいな人とのスリリングな出会いもなく。
「うなされとったよ」
「そうですか」
 とりすました返事をするときも、私は相手の姿を直視せずにいた。ユウトの記憶が薄れてしまわないように。
 心臓に悪い連鎖する悪夢も、覚めてしまえばスリル満点で、ところどころはすでに甘美な思い出になっていた。好きなゲームの中に入ったり、あこがれの人とダベったり、あとさき考えず男の部屋に行ったり、悪の組織にとらわれて、アクション映画ばりの経験を楽しんだりできるのも、夢なればこそ ――― それにしても豪華なラインナップだった。ほんのうたた寝のあいだに、無限の時間経過がつめこまれている。
「いい夢だったのかね」
 あらぬ方向を見ながら、私はずいぶんニヤニヤしていたらしい。気味が悪い、という口調で教授が言った。
「いいえ」
 私はムスッとして否定した。ユウトとの夢のなかだけの一夜を、人に話して台無しにしてしまいたくない。
「なんだか夢見が悪くて、高いところから落ちる夢ばっかり見ます」
「はん。ニューヨークで、シュールな作品ばっかり見てきたんだろう」
 今度の旅で私は、近代以降の前衛美術を、絵画・造形とわず、山ほど堪能してきた。守備範囲である日本の中世絵画から、うんとかけ離れたものを見ようというわけだ。
 意外だったのは、前衛であればあるほど、向きあったときのたたずまいがスッキリと理性的だったこと。たとえば混沌を表現していても、思想のようなものが理路整然としているので、寝覚めの悪い夢のような、イヤなあと味がないのだ。
「前衛美術のせいじゃないですよ。ただの疲れです」
 教授の資料室のカオスのほうがよほど前衛的で、私の見た夢のほうが、よほどシュールだ。あの無秩序。こちらからはなにひとつ選択させてくれない、制御不能の不条理。
「はっは」
 教授がスタスタと通りすぎた。ほかのスタッフは打ち合わせに招集されている。ガランとした空間に、私と教授だけが取り残されていた。
「有給休暇をぜんぶ使ったってのに、ちっともリフレッシュしとらんのか」
 あんたがくれた有給じゃないけどね。私は奥歯をギリッとかみしめた。
 私は、教授の資料室に雇われているわけではない。“経費節減”を掲げる恩師に、私を含むかつての教え子たちはことあるごとに呼び出され、資料の整理や文書入力なんかにこき使われていた。
 つまりはタダ働きだったが、就職先は美術系ではなかったので、興味のある分野にたずさわっていられるのは楽しかった。
 なんて言っていられたのは、体力のあったころまでだ。二十代も折り返し地点をすぎ、だんだん徹夜の効率が下がってきた。仕事でのポカは増えるし、教授の私費研究はどんどん趣味の領域に入っていくし、なんのためにギリギリの仮眠を取りながらタダ働きに通っているのか、近ごろ分からなくなってきている。
 いや、分からなくなったのではない。理由が消滅したのだ。これまでのタダ働きの目的はもちろん、彼に会うためだった。教授 …… ではなくて、いまや晴れて教授の未来の娘むことなった彼。今日の現場にも、当然来ている。

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