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(6)

「それで、ユウト」
 私は眺めのいい芝生の庭で、籐のガーデンチェアに寝そべっていた。
 ユウトはチェアのはしに腰かけて、氷のパックを私のたんこぶにあててくれている。
「さいご、あのひとはなんて言ったの?」
「さいご?」
「ほら、こうやったでしょう」
 私は指をぐいと突きつけて、ボスの仕草を真似てみせた。
「聞いたことない言い回しで、分かんなかった」
「ああ」
 ユウトは同じ手つきをしてニヤリと笑った。
「オレにうんと儲けさせろよ、だってさ」
 ユウトはボスの面前に引きだされ、粉をくすねたことを堂々と認めた。
 そのうえで、どうやって日本市場を開拓するつもりだったか、自分のアイデアを売り込んだのだ。麻薬探知犬の鼻もごまかせるという、特殊な薬品を混ぜたニスを、ブツを仕込んだ絵画の額縁や家具に塗りたくる。彼の言葉どおり、ユウト特製フォトフレームに新たに白い粉を詰めこんで差しだしてみたところ、ボスお抱えの探知犬はなにも反応しなかった。
 自家用麻薬犬なんてアリかしら。私はまた何度目かの“さすがボス”をつぶやいていた。
「アパートであれが見つかってたら、僕らは処刑場所に直行だったよ。ありがとう」
 ブツを回収したら、あとは裏切り者の始末をすれば、用心棒たちの仕事はおわりだ。それは空袋が見つかった場合だって同じだったと、彼はこともなげに言った。
 すでに売りさばいたか、巧妙に隠したらしいブツのありかを聞き出すために、私たちはボスのお膝もとまで連れてこられたのだそうだ。ユウトは、ゴミ置き場のかげで私を抱き起こしたときにフォトフレームと空の袋に気づき、すばやく自分の体に隠した。男たちによってユウトはすでにざっと体をあらためられたあとだったから。私のぴったりした服ではふくらみを隠しようがなかったろう。
 最後の身体検査でとうとう粉まみれの袋が見つかったわけだが、予定を変えてこのまま始末しますか? とかなんとか、護衛たちがお伺いをたてているところに、ユウトは食い下がった。ボスに損をさせない話があるからとまくしたて、会見を申し入れたのだ。
 イチかバチかの賭けに出て、ユウトはボスのふところに飛び込み、みごと血路をひらいた。ボスと対面した以上、次になにかヘマをすれば今度こそ命はないだろうが、組織を儲けさせているかぎり、売人としての彼の人生はつづくだろう。
 私はブランケットのうえに起き上がった。ユウトが氷のパックをあてながら頭を支えてくれる。彼の手を振り払った。
 後頭部をさぐってみると、ぶよぶよだったこぶはもう固くなってきていた。
「で、私は運び屋をしなきゃならないの」
 ユウトはパックをドサリと置いた。
「巻き込んで悪い …… でも、君の身元はもう組織におさえられてしまった。パスポートを見られて」
 私のパスポートはホテルの部屋にある。はじめのうち私をかばおうとしていたユウトは、私が無関係だと証明するため、男たちに私の宿泊先を教えてしまった。ただちに組織の人間がホテルに忍び込んで、預かったブツがないか私の荷物をチェックし、部屋にそなえつけの金庫まであらためたという。ルームキーだろうがナンバー式金庫だろうが、そのスジの人間にとっては鍵なんてないも同然らしい。
「巻き込んでって。はじめからそのつもりだったんでしょう? ホイホイついてくるような女をさがして、美術館をうろついてたんじゃないの」
「違う。って言っても、信じてもらえないだろうけど」
 信じるとか信じないとか、浮気をしたしないでモメているカップルのようだ。身の安全と引き換えに危ない橋をわたって、生まれた国の人々をクスリで破滅させようかってときの会話じゃない。
「そんなつもりで声をかけたんじゃないよ。でも、フォトフレームの偽装がうまくいくかどうか、実験してみたいとは思ってて」
「実験が失敗したら? 私は日本に帰ったとたん、逮捕されちゃうじゃないの」
 声を荒げた勢いのまま、ふらりと立ち上がった。感情が高ぶって血のめぐりがよくなると、まだ少しクラクラする。ユウトが腕を回して私の体を支えた。
「だまされただけだって、警察にぜんぶ話せばいい。僕の家もわかってるんだし」
 私がユウトの住所を警察に話しても、そこはきっともぬけのカラだったろう。日本の空港で薬物不法所持の捕り物がないかどうか、彼はどこかに身を潜めてニュースに注目していればよかった。ともあれ、ニスの偽装が有効であることはもう証明されたのだ。私はどっしりかまえて帰国すればいい。お土産をほんのちょっと多めに持って。
 私はすっかりユウトの女ということになっていて、私が警察に駆けこんだりおかしな動きをすれば、彼の命はないのだそうだ。
 そんな脅しが成立するほどの付き合いは、ユウトとはまだない。多分。でも、それを彼らに知られたら、今度は私の口が封じられる。
 考えれば考えるほど、私はややこしい事情にがんじがらめになっていた。ぜんぶ放り出して、どこかへ逃げたい。
 じっとしていると叫びだしそうで、私は芝生のうえを素足で歩きだした。ユウトは私にしっかりと腕を巻きつけたまま、寄り添うように歩く。
 邸宅は眺望のいい高台にあるようで、敷地のぐるりを囲む塀のかなたには、果樹園や国立公園なんかもある郊外の景色がのぞめた。芝生の庭には大きな噴水もあったりして、状況が違えばこんな素敵なピクニックデートはない。
「私は …… クスリを打たれたりするの」
「そんなこと、絶対にしない」
 ユウトはきっぱりと首を横に振った。
「腕に注射痕をいっぱいつけた運び屋なんて、見た目からしてヤバすぎる」
「そっか」
「もちろん、カナのことが大事だからっていうのが一番だよ」
「ふう」
 歩きながら、私は相づちのような単なる呼吸のような、あいまいな返事をした。
 背後の建物を振り返る。バルコニーには誰もいない。ボスの優雅な朝食は終わったようだ。ワゴンを押しながら、仏像顔の給仕が室内に消えていく後ろ姿が見えた。これから幹部たちを集めた話し合いとなり、新しいビジネスの青写真が固まったら、私たちは街まで送っていってもらえるそうだ。
「わかったわ、協力する」
 私に選択の余地なんてはじめからないのだが、流れとして言ってみた。ユウトが優しく笑った。
「嬉しいな。ありがとう」
 彼の笑顔がゆっくりと近づいて、ためすように一瞬止まった。
「カナ ……
 私は拒否しなかった。
 押しつけられた唇に、思い切り噛み付いた。やわらかい肉が、歯のあいだでごりっとつぶれた。
「う!」
 反射的に腕をゆるめたユウトを、噴水のなかに突き飛ばした。
―― ってえ!」
 水音をたてて、ユウトは円形のプールにひっくり返ったようだ。私は庭のはずれの、一本の木をめざして走った。
 広い敷地はぐるりを防犯用の高い塀で囲まれていたが、庭のほうでは、眺望をさえぎる無粋な塀は立ち木で覆うように隠してあった。塀そのものも低めになっていて、立ち木の枝のほうが高くなっている場所もあるくらいだ。高く枝を伸ばしている幹に、私は夢中で取りついた。
「カナ! そっちは ……
 根かた近くからゴツゴツとねじまがっている、登りやすい木だ。はだしの足で駆けのぼり、一気に塀のうえまでたどりついた。身を乗りだしながら、葉のしげった枝を顔から払うと、塀のむこうは、目もくらむような断崖だった。
 すでに勢いよく塀を飛び下りる気でいた私は、そのまま落ちた。
「カナ!」
 急斜面を滑りながら、やぶや潅木に体じゅうをいやというほど引っかかれた。つかんだ小枝がパシッと音を立ててちぎれる一瞬まえに、まだ望みのありそうな別の枝をつかむ。やみくもな手探りのくりかえしで、なんとか落下は止まったのだが、ゾッとすることに、足が空をかいていて、ももから下がどこにも接していなかった。
「動かないで」
 追いついたユウトが、塀を乗りこえている。
「下は川なんだ、深いよ」
 塀の低さは、眺望のためだけじゃなかった。敷地のこちらがわは、侵入者を警戒する必要なんかないくらい、険しい崖なのだ。今さら気づいても遅い。
 ねじくれた細い小枝は手のひらを引っかきながら、指のあいだをじりじりとすり抜けていく。
「ユウト」
 呼びかけた声は、もう泣き出していた。
「ねえ、こんなのホントじゃないでしょう? こんなの、現実ばなれしすぎてる」
「しっかり。こっちへ手を伸ばして」
 ユウトは自分も斜面を滑りながら、片手を差しだしている。さっき私が噛み付いた彼の唇はかなり切れて、鮮血がねっとりと赤い。舌の先に、ユウトの鉄っぽい血の味を感じた。
「これって、夢オチよね? ああよかった、なんだ拍子抜け …… で、終わるのよね?」
 夢オチは、アリスにとって救済だった。トランプの兵士に追い詰められた絶体絶命のラストは、けっきょくあの場では解決しなかったのだ。
「ねえ、答えてよ」
「この先に、夢オチがあるかどうか? それは ……
 赤く濡れた唇が、細い三日月のかたちに吊りあがった。
「オチてみないと、分からないよ」
 手のなかの枝がパシ、パシと音をたて、最後にぷつんと手ごたえを失った。

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