(4)
「ああ!」
自分の声で目が覚めた。
全力疾走したように息がはずんでいて、私は胸を押さえようとした。が、片手があがらない。誰かに二の腕をつかまれている。振り払うようにもがいた。
「じっとして」
腕をつかまれたまま、どこか狭い場所から引きずりだされた。
「ううっ …… !」
外のまぶしい光に目がくらんだ。私はよろめきながら、誰かの力強い腕にすがりついた。
「しっかり、カナ」
カナというのは自分の名前だと私は思い、それから、自分は名前を呼ばれたのだと理解した。
「だれ?」
弱々しくつぶやいてから、霧のかかった頭のなかで、記憶の粒がパチンとはぜた。
「ユウト …… 」
「よかった。心配したよ」
目が慣れるとそこはビルとビルのあいだにある路地のような空間で、思ったほど明るくはなかった。私はコンクリートの壁にもたれるように座らされた。
「カナ、怪我はない?」
ユウトが私の体をあらためる。彼の視線につられるようにふらりと頭を動かすと、
「うあっ、た …… 」
後頭部に、ごおんという痛みが響いた。私が手で押さえたあたりをユウトがそっと探った。
「切れたりはしてないね。ひどくぶつけたの?」
「落ちたときに …… 」
つぶやいて、考えこんだ。
落ちた、どこから? はしごから。
はしご、どうして? 逃げていて。
逃げる、なにから? なにからだ ……
切れ切れの単語がうずまく頭を抱え、めまいが過ぎるのをじっと待っていると、足もとのゴミのなかに、ミネラルウォーターのボトルが転がっているのが見えた。
「お水 …… 」
口のなかがカラカラだった。横だおしのボトルのなかにたまっている雨水さえ、おいしそうに見える。 ―― ダメダメ。生水どころじゃないでしょ、こんなゴミの水。理性でなんとか自分を押しとどめたとき。
――― 生水。
現地では、生水を摂らないようにしましょう。不審な荷物を預からないようにしましょう。
海外旅行の心がまえをつづったパンフレットの文句が浮かんで、私はなにもかも思い出した。
ひとり旅なんて、やめておけばよかった。
責任転嫁をゆるしてもらえるなら、発端は共同事業チームの、あこがれの彼だ。人が遠慮ぶかく想いをよせていたというのに、ヤツはうちのボスに娘との縁談を持ちかけられたとたん、付き合っていた彼女とあっさり別れたのだ。
あこがれているだけで満足なんて、片思いに陶酔していた自分がすごくマヌケに思える。彼女との付き合いがそんなに薄いものだったのなら、遠慮なんかせず、私もぶつかってみていたらどうだったろうなんて考えてしまうのだ。色仕掛けでもなんでもして、彼女を押しのけられたかもしれない。晴れて私とのお付き合いが始まり、縁談が持ち上がり、当代の彼女である私は、あっという間に捨てられるんだ。くっそう最低男め、ゆるさん。
告白もしていない相手に不毛な恨み言を繰り広げて疲れ、そもそも「彼女がいる人にちょっかいを出すなんてみっともない」というのは単にぶつかる度胸がない言い訳だったのかもしれないと自分を責めて疲れ、暗澹とした気分をまぎらそうと、私は恋愛シミュレーションゲームに手を出し、計画だてて告白をめざすゲームに、見事にハマったのだった。
擬似空間でのリハビリ恋愛に、乙女心はなぐさめられた。しかし努力が確実に報われるゲーム世界は麻薬のように後を引き、眠るべき時間にきちんと眠れなくなり、慢性的な睡眠不足に耐えかねた私は、いっそ昼夜が逆転するくらい時差のある国まで行ってしまえと、海外旅行を思い立った。
旅の目的は美術館めぐりで、男をつかまえようなんてものでは断じてなかったのだが、場所がらが知的だったせいか油断した。いや、言い訳をしたってしょうがない。声をかけてきたユウトが、つまりとてもタイプだったのだ。
タイプといっても、今まで好きになった誰とも似ていない。顔ではなくて雰囲気というか、並んでいるだけで波長が合うというか、私の本当のタイプはこういう人だったんだと、認識をあらたにしたような次第 …… まあとにかく素敵だったのでした。
旅行者ではなく、こっちに住んでいるという。日本語ガイドブックには載っていない場所をいろいろ案内してもらい、なにを盛り上がったかすんなり彼の部屋に泊まってしまったあくる朝、彼が、壁にかけていたフォトフレームをくれた。美術館で見た近代作品のポストカードが入れてある。
「あそこでいちばん好きな絵なんだ」
もちろん私も好きになった。
フレームは、枠のデザインが太めでセンスがいい。彼の手づくりなのか、少しニスくさいのはご愛嬌だ。
「部屋に飾ってるかどうか、確かめに行くからね」
日本での再会を約束し、舞い上がる。
玉手箱は開けてはいけないと知っていたが、フレームの角にわずかなズレがあり、裏面の貼りあわせがどうしても気になった。ユウトが朝食の支度をしに行ったスキに、ペンを突っ込んで裏板をはがしてみた。厚みのある枠のなかはくりぬかれていて、袋入りの白い粉が詰まっていた。
私はもう少しで、運び屋をさせられるところだった。
動転した私が粉をとりあえずぜんぶトイレに流したちょうどそのとき、ユウトの部屋のドアが蹴やぶられた。
乗り込んできた男たちの英語は早口で乱暴だったが、私のつたないヒアリング能力に頼らずとも、状況は飲み込めた。ユウトは組織に内緒で粉をちょっぴりごまかし、別ルートで独自にさばこうとしていた。別ルートというのはこの私で、私はたったいま下水に流した白い粉を、正当な持ち主にお返ししなきゃならなくなったのだ。
ユウトはベーコンのいい匂いがただようキッチンで、頭にたぶん銃を突きつけられている。殴ったりする音がしないのは、つまりそういうことだ。ブツはここにはない、とか言っている。私をかばって、男たちをなんとかよそへ連れ出すつもりなのだろうか。
ほんの数秒のあいだにそんなことを考えながら、私の手はからっぽのビニール袋を握りしめていた。 ―― 粉だらけの空袋。これを見つけられたらおしまいだ。私はひき裂いて開けた袋の残骸をかきあつめ、怪しい空洞のあるフォトフレームごとウエストにぐいと突っ込んで、窓から壁づたいに、外へ逃げた。
窓から身を乗りだしても、隣のビルの壁しか見えなかった。ユウトの部屋が何階だったのか、覚えていない。エレベーターのなかでは他のことに忙しく、階数表示なんか見なかった。おかげで足のしたに何階ぶんの高さがあるのか、考えずにすんだ。
ひたすらよちよちと壁をつたい、錆びたはしごにたどりつくと、今度は果てしない長さを降りていった。焦燥と混乱でだんだん手足の動きがバラバラになる。とうとう足をすべらせた。あちこちぶつけながら下まで落ちた。頭を強く打ったが、大きなゴミ用コンテナのかげまで這っていってなんとか身を隠し …… 私はそこで気を失っていたのだ。
――― と、いう夢を見ていたのだっけ? 私は仕事がえりにどこかの路地で酔っ払って寝て、いつか見た映画かなにかを連想したのだろうか? 混乱した頭を、また痛みが襲った。
すり傷まみれの私を、ユウトがそっと抱きあげた。
「なにが …… どうなったの」
私は彼の胸元にすがりついた。ユウトが来てくれた。ひとまずは安心だ。なにをどれだけ飲んだにしても、記憶が飛ぶほど泥酔するなんて、人生で初めてだということを、彼は信じてくれるだろうか。
ユウトは私の顔を見もせず、路地のはずれにむかって声を張り上げた。
「ファウンダー!」
一拍おいて、それが Found her (見つけた)だと分かった。彼の視線の先、明るい歩道に、スーツ姿がやけにゴツい男たちが立っていて、ひとりが電話をしながらうなずき、日本人とは違う手つきで、来いという仕草をした。
ユウトに抱えられたまま、陽光のなかに出た。
朝の日ざしだ、と思った。ゆうべから、世界は途切れずにつづいている。古びたアパート群に区切られた異国の空は、あっけらかんと青い。
私は目だけでキョロキョロと見回し、夢オチへの黒い脱出口をさがした。