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(3)

「ああ!」
 自分の声で目が覚めた。
「だいじょうぶ?」
 誰かの声がして、目のまえの暗がりに、人の顔があった。
「うなされてるの、なんか色っぽかったから、起こさなかった。ごめんね」
 親しげに言って、髪に触れようと、手を伸ばしてきた、同じ布団のなかの男の名を、私は知らなかった。
「だれ …… だれ!」
 仰向けに転がっている姿勢から、これ以上どこかへ倒れるはずもないのに、私は必死でうしろに腕をつっぱり、あちこち手を伸ばして、つかまれるものを探した。
「ちょ、ちょっと、待って待って」
 男がすばやく起き上がって、枕元のライトをつけた。一瞬にして目のまえが白くなる。私は腕で顔をおおい、強く目をつぶった。
「落ち着いて」
 そろそろとあたりを見回すと、知らないベッドだ。見たこともない部屋。やっぱり、まただ。奇妙な夢の連鎖から、私は抜け出せなくなっている。
 喉元で膨れ上がったパニックが、あとひと押しでパチンと破裂するというとき、男の手が私の肩を軽くつかんだ。
「僕はユウト。君とは今日会ったばかり。行きずりって …… 初めてだった?」
 ベッドスタンドのライトはもう黄色く落ち着いていた。やわらかい光が、心配げな顔を照らし出した。
「は、あふっ …… !」
 できそこないのクシャミのような音をたて、私は息を吐き出した。全身の力が抜け、こめかみと後頭部と、とにかく頭全体がドクドクいっている。
 へたりこんでいる私のうえを、ユウトの裸の胸が越えていった。ベッドの反対側に身を乗りだし、私がはねのけたらしい枕を拾いあげる。
「平気?」
 私はなんとかうなずいた。ユウトが枕を頭の下に入れてくれる。
「サイテーの夢、見ちゃって」
 やわらかい枕に頭をあずけながら、彼の唇を見つめ ―― 思い出した。この唇が、ぬめるように赤かった。気合いを入れてつけすぎた私のリップグロスがべったりとうつったのだ。
「あなたがユウト、だったのね」
 彼がけげんな表情になった。相手の名前をようやく思い出したにしては、おかしなセリフだろう。私は二段構えだった夢の内容を、順を追って話した。
 見た夢の話を聞かされるなんて、よほど親しい間柄でもごめんこうむりたいと、私は常々思っている。だが自分の夢となれば話は別だった。
「それは、かなり疲れる夢だなあ」
 ユウトは嫌な顔もせず、最後まで聞いてくれた。
「ぐったりよ」
「ふうん、後悔してるわけだ」
 不敵な笑みをのこして、彼がひょいと起き上がった。布団がめくれてしまい慌てたが、私は下着とサイズの大きいTシャツを、ちゃんと身に着けていた。
「後悔って」
 彼はそのまま、スタンドの明かりの輪を出て行く。ペタペタという足音が向かった先で、むきだしの上半身だけが、暗闇にぼうっと見分けられた。
「その“彼”たちって、まえのカレとかでしょ?」
「あ」
「会ったばかりの男の部屋につれこまれたりして、悪い道におちちゃった君を、たしなめに来たんじゃないのかな」
 それならなにもかも符合するのだが …… 夢ってものに、そんなロマンチックな整合性を期待してはいけない。
 社長イスの“彼”は、恋人のカレではない。
 職場の同僚でもない。うちと共同事業をしている業者の、チームリーダーだ。ひそかにあこがれていたのだが、彼女がいるとのリサーチを受けて、女の同僚と話だけで盛り上がるにとどめていた。道理で男と女がごっちゃになっていたわけだ。
 さいしょの“ユウト”にいたっては、なんと以前ハマっていた恋愛シミュレーションゲームのターゲットキャラだ。幼なじみで徒歩通学のお隣さん。俯瞰マップで寄り道コースを選び、ムダ話が多くなると親密度があがる。名前は好きに変えられた。
「あはは」
 ぶっちゃけるべきかどうか分からなかったので、とりあえず笑った。
 幼なじみクン、ごめん。えらそうなお説教したのに、こんな。
 リーダーさんも、すみません。二十七歳の現実から逃避したあげくが、こんなです。
 そう多くはなかった私の恋愛経験のうちのどの“彼”も、こんなときに私を叱咤しにあらわれてはくれなかった。薄情なものだ。いや、薄情なのは私か。私が、心のもっとも純粋な部分に住まわせていたのは、現実の恋人ではなく、あのふたりだったということなのだから。
 ばすん、と音がして、見ると、現実のユウトが冷蔵庫の光のなかに立っていた。なにかのボトルを出して、すぐに扉を閉める。目のなかに、彼のひきしまった体の残像がのこった。
 悪い道に、堕ちた …… 正直、そうは思わない。私の過去の純情たちには申し訳ないが。
 ぼんやりとしたユウトの影が、こちらをじっと見た。向こうからは、ライトの下で笑ってしまっている私の顔が見えているのだろう。
「また会えるよね」
 断定されてしまった。暗い海のような床を歩いて、彼が明かりの輪のほうへ戻ってくる。
「メールしていいかな」
 これも質問ではなく断定で、答えの代わりに私はまばたきした。
 彼の声が笑う。
「メアド教えてもらってない」
「そっか」
 私はバッグをさがして、周りを見回した。どこへ置いたっけ? スタンドが明るすぎて、ほかの場所がとても暗い。
「名前も、教えてもらってないよ」
「え、そうだっけ」
「そうだよ」
 私は光の輪のなかに座っていた。ユウトは、暗いところにただよったまま。
「教えてよ、名前」
「私の、名前 ―――
 答えられなかった。明るく照らされたベッドがゆっくりと平衡を失い、船首をのこして沈む小船のように、かたむきを増していった。
「おちるよ」
 彼が笑って手を差しのべ、私は腕を伸ばしたが、助ける気も、すがる気も初めからなくて、私はまっ暗な空間にすべり落ちていった。

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