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(2)

「ああ!」
 自分が叫ぶ声を聞いた。
 私は荒い息をつきながら、くしゃくしゃの毛布のうえに起き直っていた。
「ゆめ …… 夢か」
 目覚めたとたん、跳ね起きていたことなんて、大遅刻の記録を更新した朝だってなかった。落ちる夢はかなりのインパクトだったらしい。
「もう、やめてよね ……
 意味のないツッコミが口をついて出る。顔のまえで揺れている髪を、くしゃりとなでつけた。心臓はまだ細かい連打を続けている。
「おーい、どしたの?」
 パーテーションの向こうで、社長イスのキャスターがカラカラと回る音がした。
 私は反射的に壁の時計を見あげてから、仮眠用の毛布を抱きしめた。
「落ちたー、空から」
 情けない声で返事をし、もう一度ソファーにつっぷした。まだ十分そこそこしか眠れていない。
「なんだ、夢かい」
 合皮がぎゅっときしむ音がした。様子を見に来るほどでもないと判断して、声の主は社長イスに座りなおしたようだ。
「そう、夢。まっさかさま」
「へええ」
 社長イスに座っているのは、社長ではない。パーテーションの向こうのせまいスペースには、サイズもへたり具合もまちまちな、大きなプレジデントチェアがごたごたと並んでいる。羽振りのいい大学教授なんかが備品を買いかえるたび、お古をもらってくるのだ。
 こういう踏んぞりかえるためのイスは、座り仕事がやりにくいことこの上ないのだが、私も同僚も文句は言わなかった。人づかいの荒いボスの、“経費節減”という口グセを聞かされるくらいなら、丸めたタオルかなにかでなんとか工夫する。
「悲鳴、すごかったよ」
「ごめん〜」
 私は目をつぶったまま答えた。時間いっぱいまで、甘い眠りをむさぼれるだろうか …… 半端に眠ったせいか、頭がズキズキする。
 枕のうえで慎重に位置を決め、髪に手グシを入れた。ショートにしてから寝グセがつきやすくなったので、髪に気をつけながらの仮眠だ。
「背でも伸びたんじゃない? 夢のなかでガクッと落ちるときは、そうだっていうよね」
 私は無言の返答で、おしゃべりの辞退を表明した。できるだけ早く、眠りの入り口をつかまえなければならない。
 しかし、あまり焦ってもかえって逆効果なのだった。私は半目をあけたまま、毛布を具合よく引き寄せた。
「私、もう二十七だよ。背なんか伸びるかっての」
「いわゆる逃避じゃない? ケーキに一の位の数しかロウソクを立てなくなったでしょ」
「逃避 ……
「伸びざかり、育ちざかりの七歳に戻りたいって願望が、夢にあらわれたんだよ。幸せなやつだなー」
「いやいや、ちっとも幸せな夢じゃなかったよ」
 少しずつ思い出してきた。落下の感覚よりも怖かったのは、彼の顔だ。
 信じて、頼って、理解しあっていると思っていた親しい相手の顔が、知らない人のものだと突然自覚した。一瞬にして足元が砂に変わり、抜け落ちる。まさに空中に放り出される感じ ……
 私は横になったまま身震いして、頭のうえの窓を見た。ブラインドがきっちり閉じていなくて、スキマから空が見えてしまう。
 アリスは怖くなかったのだろうか。子供だから、未知のものへの耐性はあるだろう。でも、あの不思議の国に両親や友だちが出てきて、チェシャ猫のように笑ったら。
 いや。子供向けにそんな底意地の悪い話を書くはずないか。作者は子供好きの、いいトシの大人だった。地に足の着かないところはあったらしいが。
 地に足を着ける ―――
 私はソファーから起き上がった。ブラインドの羽根を指でひろげ、地上を探したが、ここは五階だ、余計に怖くなった。路地や建物がきちんと識別できる、ごく近い地上に向かって落ちていった恐怖が、またよみがえってくる。
「ダメだ。眠れん」
 私はガバッと毛布をめくり、床のサンダルを足で引き寄せた。
「ちょっと歩いて、頭スッキリさせてくるわ」
「休憩、ムダになっちゃうねー」
 仮眠より、ちゃんとした地面に足を着けて心を落ちつけたかった。かかとのベルトを踏んだまま、玄関に向かった。
 オフィスは、広めの1DKをパーテーションで仕切ってあるだけで、つくりは普通のマンションだ。私は玄関で外ばきに履き替え、ぐっとドアを押しあけた。スチール製のドアが、キュイーイ、と、悲鳴のような音をたてて開いた。
「あ、一緒に行く」
 立ち上がる気配がして、社長イスがカラカラと押しやられた。私はドアを支えながら、ふと振り返った。一緒に出かけたら、留守番がいなくなってしまうけど?
 たずねようとして、パーテーションのかげからあらわれた“彼”の姿に、私の目はくぎづけになった。
「あんた …… 男だったっけ?」
 今までの会話の、相手の声を思い返してみる。それが男か女か、判然としないのはどうしてだろう。言葉の荒い、女の同僚に話しているような気がしていたはずだ。いや、会話のあいだじゅう、相手の性別を、私は知らずにいた。そんなことって ……
 私はドアノブにすがりついた。半開きの扉が、ゆらりと押されていく。
 キュイーイ。
「ここは、なんの会社?」
 私はここで、なにをするため必死に仮眠をとっていたのだろう? 頭がズキズキする。
「おーい、寝ボケてんの?」
 ニッと笑った彼の顔のなかで、唇だけがやけに艶めいて、化粧した女のように赤かった。
 彼の笑顔に魅入られたまま、よろりと足を踏み出した。
 玄関の外はすぐに空がはじまっていて、私はまっさかさまに落ちた。

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