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ストームクラウドワルツ(1)

 クレアはようやくベッドに横になった。ピーターに部屋まで送られたあと、何となく立ったまま時計の音を聞いていた。
 安ホテルの部屋にも時計はあったはずだが、緊張で何の音も聞こえなかった。気が付くと彼が荷物をまとめていて、何度も下宿の住所を聞かれていた。まさか家主さんのうちに押しかけるとは …… その手があったか。クレアはチェスの指し手に感心する人のようにうなずいた。ここでなら、私は私でいられる。
 キスは甘くも苦くもなく ――― クレアは、また何度目か指先で唇にふれた。しいて表現するなら、キスはリースさん秘伝のグレービーソースのおかわりの味と言えた。ぷうっと吹きだして顔を埋めると、自分のくつくつ笑いがくぐもって響いた。
 耳を澄ますと階下に物音はなく、でも人が寝静まっているということではなくて、世間話という名の尋問が続いているあいだは、誰もリースさんちのソファから身動きできないのだ。
 冷静になった耳に世界はただしんとして、外は雪がやんでいるようだった。青灰色の雪雲は去り、夜空は澄み渡っているだろう。凍ったような星と、マーマレード色の月が出ているだろう。晴れた夜は冷え込むきざしで、いつも暖房の調子が落ちるのだが、クレアはちっとも寒さを感じなかった。
 あかりもつけずにいたので、すっかり目が暗闇に慣れていた。上掛けから腕を出したまま体を回すと、枕元の写真が見えた。
 二十一歳の誕生日、お前ももう大人だと言ってくれた両親は、ピーターを目の前にすれば「それとこれとは」と言うかもしれない。あまり人に自慢できない彼の前歴を考えれば理解はできるし、何とかやっていけるだろう。
 クレアは上掛けをぐっと肩まで引きあげた。私も働いている …… いや、今の会社は辞めなければならないだろう。取引先の大株主に勘当された娘を、雇っておいてはくれないだろう。しばらく職を探すことになっても、少しは貯金がある。
 ピーターは心配するなと何度も言った。イギリスで働くための“きれいな”紹介状がもらえるよう、イタリアでは真面目に働いたから、少しは貯めているって。逃亡生活の旅費に使ったぶん、うちでもらったお給料なんかのたくわえは、かなり減ってしまったそうだけど。
 クレアはとろとろと眠りに落ちかかっていた。
 たくわえ …… 以前にやった泥棒のかせぎも混じっているのだろうか。ああいうお金って、貯めておけるのだろうか。あぶく銭って感じがするけど …… 。ギャングなんかは、不法な収入を“ギャンブルで勝った”なんて言って、所得として申告するらしい。ピーターも銀行に口座を持って、盗んだお金から納税したのだろうか ……
 クレアは目をつぶったまま丸くなって、枕をかき寄せた。
 泥棒したお金で指輪を買ってもらうことに、あまり抵抗を感じないのは、いけないことだろうか。誰にだって恥じることなく、堂々と言える。紹介しますわ、彼は私の ――― 以前の雇い人で、初恋の人で、私のために何もかも投げ捨ててくれた、バカみたいにかわいい人なんです。
 クレアはぎゅっと身を縮めて笑った。従姉妹のミセス・オルグレンが呆れて席をはずす様子が浮かんでくる。お得意の捨てゼリフまでが鮮やかだ。
 私は信用していませんでしたよ、外国人なんて。外国にかかわりのあるイギリス人ほど、うさんくさいものは ――― ピーターが何カ国を放浪して来たか言ったら、彼女はどんな顔をするだろう?
 寄せては返す波のように愉快な冗談口にたゆたいながら、何かがクレアの頭のスミに引っかかっていた。
 ミセス・オルグレンは、あのとき何と言っていた? 彼のことをようすのいい男だと言って ――― その、もちょっと前。
 みんなあの男の言葉だけでしょう。何か証明できますの?
 クレアは目をひらいた。
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