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トゥルーブルーロジック(11)

 それからは金策の日々となった。
 田舎の冬は特に燃料がかさむ。今ある石炭箱が空になる前に、都会へ移る必要があった。
 最後から二つ目のダイヤを換金していた分の残りが、手持ちのすべてだった。商店への支払いと引っ越し費用、どちらを優先させるかとなれば、都会で現金がなくてはお話にならない。ツケの清算を後回しにするほかなかった。
「だが僕の魅力をもってしても、ツケを残したまま土地を引き払うなんてできないよ。だから世間じゃ夜逃げをするんだ」
「夜逃げするにもあたしたち、荷車ひとつ持ってないわね」
 邸宅は貸家だから仲介業者に任せればよかったが、家具を置いていかれると管理が厄介だと言って、仲介業者は引き取りを拒んだ。まだ羽振りがいい頃に整えたものばかりなので、物は確かなのだと食い下がっても、ならばと余分の手数料まで要求してくる。
「雑貨屋さんに頼めないかしら」
 一帯に呼びかけて家具の競売を催し、ツケの清算にはその売り上げを充ててくれという図々しい頼みには、さすがのオグデンもなかなか首を縦に振らなかった。とうとう旦那さまが店まで出向き、恥ずかしそうにこう言った。
「実はあんたらにしか頼めんのだ。ここだけの話、いかがわしいパルプ雑誌が大量にあってな、何とか人目に触れんよう処分してもらえんだろうか」
 オグデンの女房が呆れたように「まあ」と言い、卿は焦って両手を振り回した。
「出版社をやっとる知り合いが勝手に送ってきよるんだ。全く迷惑なことさ。あっちは好意のつもりだから、編集方針に口を出すのも気が引けとったが、あんたのような健全な家庭人が見て、ひとつ厳しいことを言ってやるのもいいかもしれん。そうとも、奴に言って送付先を変更させよう」
「……何ですって、旦那さま、送付?」
「うむ」
 バーナビー卿は改心した小学生のように真っ直ぐ彼女を見た。
「堕落したクズ本屋を良心に目覚めさせてやってくれ。最新号があんたのとこに届く、この先ずっと」
 女房はもう一度「んまあ」と言った。
 オグデンは所在なさげに二人を見比べた。
「えー旦那さま、うちのを信用してくだすって、何てえか、有難えことでございます。そんでさっきのお話ですが、いてて、お前肘が」
「わかりました」
 オグデンの女房は亭主を押しのけて立った。
「そりゃ、あたしだってそんなもの見たかありませんがね。若い衆が手に取っちまう前に、分別ある大人が目を通してやる必要はあるでしょうからね」
 結局、大工や卵屋、牛乳屋の勘定まで、ブランモート夫妻が責任持って競売から清算までを取り仕切ることになった。バーナビー卿は「こううまく行くとは」と首を振り、入れ知恵したレオニーはニヤリと笑った。
「ありゃ愛読者ですよ」
 雑貨屋の女房は亭主に指図して、まず雑誌の山をごっそり自宅の屋根部屋に移させた。創刊号からズラリ揃ったコレクションはパルプ雑誌マニアを狂喜させ、競売の結果、売り手にひと財産をもたらすことになるのだが、それは数世代のちの話。


 夜逃げはせずに済んだので、一家は協力して引っ越し準備にかかった。結局、荷物は夜逃げ同然に切り詰められた。
「青春の蔵書ともいよいよおさらばだ」
 バーナビー卿はそう言って、一列しか埋まっていない書棚にほこりよけの布をかけた。
 夫人は、要るもの要らないものに仕分けしていた書類の束を置いた。
「ぜんぶ? お好きなロマン派だけでも取っておいたら」
「それでも木箱がひとついっぱいになる。余計な輸送費に割く金はないよ」
「競売で誰か買ってくれるといいけど」
「単なる当時の流行本だから、稀覯本というほどでもない。村の小学校にでも置いてもらやいいさ。フランス語を話す家庭は多いし」
「子供たちには迷惑な教材になりますね」
 デレクは布をめくって古びた背表紙をひとわたり眺めた。古典派に反抗していればそれでよかった素朴な時代、声の大きい感激屋たちが理想を求めた新表現はやたら大げさで読みづらく、デレクはどれも序章で投げ出している。
「パルプ雑誌のほうがまだ金を出して読まれているだろうなあ」
「これも、ある意味パルプものだろうよ。ロマン派は瞬く間に文学界を席巻し、言葉の魔法ひとつで世界が変わると若者に信じさせ、頭の冷えた者から順に自然主義に移行すると、あっさり捨てられた」
「捨てない者もいたわけだ」
 デレクが両手で書棚の幅を示すと、郷は重々しく片手を胸に当てた。
「我が忠誠も財布事情とともについえたり。イギリスくんだりからようもこれだけ運んだものだ。まだまだ殿さま気分でおったのだなあ、今思えば」
「最後のダイヤはもう、滅多なことでは使えないわねえ」
「最後のひとつだものなあ」
「そうそう、ちょっと気になってたんだけど」
 レオニーが裏声で割り込み、エホンと喉を整えた。
「えーと、ロイヤルオンタリオ博物館の求人って、本当にまだ生きてるの?」
 ダイヤから話をそらすための質問に特別意味はなかったが、ボソボソと英訳が回されるのを待つうち、レオニーは彼らお得意の取りすましたような表情に気づいた。
「ねえ。まさか、誰もちゃんと確認してないなんてことないわよね?」
「いえね、今から手紙を出したって行き違いになるし」
「連絡はまあ、トロントに出てからでいいかなって」
「よかないわ。肝心なことでしょ。信じられない」
「長距離通話になるし」
「あたしのお金を使います」
 レオニーはそう言って自分の手提げをつかんだ。デレクが大きな一歩で立ちはだかった。
「待てレオニー、共同回線でぜんぶ聞かれてしまうじゃないか。哀れっぽく働き口をせがむところをさ」
 レオニーは呆れて首を振ってから、さっさと戸口へ向かった。夫人の声があとを追った。
「デレク、使わせてはダメよ。この家で唯一の働いて貯めたお金でしょ。大いばりで銀行に口座を開けるわ。最後のダイヤより貴重よ。ねえあなた」
「そうともデレク、最後のダイヤより」
「行ってきます!」
 飛び出すと、雪のない戸外はキリキリとした寒気にさらされていた。雪の最初のひとひらを期待して村の誰もがするように、デレクも人待ち顔で空を仰いだ。
「ダイヤのこと、もう感づかれてる気がするな……」
 レオニーは顔の下半分をショールに埋めたまま、目だけで同意した。デレクはするりと風上がわに並んだ。
「二人がかりで隠蔽すれば、もう少しもつかと思ったが。かえって二人分のボロが出ているのかな」
 レオニーは凍った岸辺をじっと見つめて歩いた。
「ねえ、湖に落っことしたって、正直に言ってみたらどうかしら。きっと冗談みたいに聞こえるわ」
 デレクは傍らのレオニーをちょっと振り返り、湖面に視線を戻した。
「なるほど。嘘つくときほど正直になれ、か」
「湖に落っことしたと思いましょう、なんて言うと、単に倹約しようって意味にも取れるし」
「なかなか味なレトリックをやるじゃないか、お嬢さん」
「ほんのバーナビー式ですわ」
 ダイヤの喪失には、何より自分たちが打ちのめされている。こわばった軽口も途切れ、ぴかりとするものであればつい目が追ってしまう近辺を過ぎて、二人はほっと身を緩めた。
「レオニー、トロントは暑苦しいくらいの英国人社会なんだ」
「どういう意味? ここより暖房費が助かるって意味?」
 デレクは盛大に白い息を吐いて笑った。レオニーは寒そうにデレクの腕にすがった。
「言わずとも向こうから探りを入れてくる、という意味。仕事のことは、落ち着いてからちょっとクラブに顔を出して、酒でもやりながらそれとなく」
「それは旦那さまのやり方でしょう、庶民の職の探し方じゃないわ。まともな勤め人になるって言ってくれたのに、あれは嘘?」
「厳密に言ってそれは僕の言葉じゃないが」
 氷上を寒風が渡り、二人は寄り添って身を縮めた。
「こりゃバーナビーさまあ」
 吹きさらしの湖畔は見通しもよい。人々は対岸からでも大声で挨拶を怒鳴った。
「名残りを惜しんでお散歩ですかねえ」
「うんいや、まあそう」
「火に当たってくかい、レオニー。あんたのオニオンスープのレシピを書いてってほしいし」
「ありがとう。ちょっと電話をかけに行くの」
「おやまあ、うちのを使えば」
「悪いわ。長距離だから」
「そうかね。長距離」
 斥候役の村人が報告を回線に上げるまでもなく、レオニーとデレクが連れだって歩く姿は今や、猫が顔を洗えば雨が降るように確かなゴシップの前兆として知られており、湖畔の住人たちはそっと受話器を上げて待った。
 村の雑貨屋から申し込まれた長距離通話はトロント局。「お話しください」という交換手の声がして、デレクは唇の両端だけを不自然に上げた。
「やあ、どうしてた……ふうん。僕はとうとう食い詰めて、今度トロントに舞い戻ることになったんだ」
 目の前にぽっかり開いた送話管の暗黒にしばし見入ってから、デレクは続けた。
「いや、金持ちの娘は捕まえそこねた。平民の女と婚約してね。ぱっとしない一族さ。社交界の付き合いもなくて暇なのはいいが、タダ飯の招待もない。フルタイムで雇ってもらえると助かるんだが」
 一定のリズムで相づちを打っていたデレクは、片手で送話管をふさいだ。
「臨時のときと同額の報酬を期待されちゃ困るとさ」
 フランス語で呟き、急いで声の調子を戻す。
「もちろんさ。詳細な目利きが要求される出物なんて、そう頻繁にあるわけじゃない。普段は目録付けから埃はたきまで何でもするよ。実際、倉庫仕事なら気が休まるね。知り合いに会わずに済む」
 デレクはラッパ管のコードをひねりながら天井に語りかけた。
「ほら、本国で僕のコレクションに感心してた輩は、例の冗談を言うだろう。僕の目が確かだって強調してくれるのは有り難いがね。陶磁の馬の真贋を見誤ることはない男だが、競走馬の足なら、一本二本数え間違えることもある」
 声を合わせて言い終えたらしくわははと笑い、回線の雑音がひどいとか、電話会社は必要もないサービスに加入させようと躍起になっているとか、たわいもない愚痴の交換があってから、デレクはハンドルを勢いよく回し、交換に通話の終了を告げた。
 電話ブースの半扉から、まずレオニーが押し出された。
「終わり? ちゃんと仕事はもらえたの?」
 デレクは「そう言ったろ?」と目を丸くしながら、交換が告げた額の硬貨をカウンターに並べた。
「雑音のせいではっきりしゃべったから、君も分かると思ったのに」
「分かったけど、だってすごく偉そうだったわよ」
「僕としては、膝立ちでにじり寄ったに等しいんだぜ。自分から過去の悪評に触れたんだから」
 奥の交換台では、オグデンの女房がヘッドセットの口元を押さえ、突如登場した馬の謎に頭をひねっているはずなので、レオニーはひそひそ声で言った。
「小銭をかき集めて汽車に乗ろうとしてる人には、とても見えなかったわ」
 デレクは懐をぺしょんと叩いた。
「これで切符は三等になった」
「一等で行くつもりだったの!」
 金物や農具が賑やかに吊された通路を抜けながら、デレクはチッと舌を鳴らした。
「二枚だけね。年寄り二人を一等へ片付けておきゃ、僕らはぎゅうぎゅうの三等席で好きなだけ肩寄せ合っていられたはずなん……」
 レオニーはあたふたと店内を振り返り、デレクを押し出して二重扉を閉めた。


 出発の日は雪がよく積もり、駅までの道中は快適な馬橇の旅になった。
 噴出する蒸気ややかましい警笛に邪魔されながら、慌しく別れの言葉が交わされ、汽車は雪景色を遠ざかって行った。
 ちぎれるほど手を振っていたオグデンは、女房に促され、線路を戻り始めながら鼻をすすった。
「あんなお方は、もうここらには現れんだろうなあ。王さまと縁続きだとか、ボルドーのシャトーだとか」
「お前さんまさか、あんなホラ話を信じてるんじゃあるまいね?」
 吹き出しかけている女房に、オグデンはぐいとアゴを引いてみせた。
「だってお前、台紙に張っ付けたワインラベルをいただいたじゃねえか。お話の通りブランモートの綴りにゃフランスのシャトーの名残りがあったろ。な、ブラーヌ・ムートン」
「あんなシールの切れっ端が何だっての」
 馬橇を停めた広場まで歩きながら、オグデンは「だってお前ブラーヌ・ムートン」と幾度も唱えながら考えをまとめていたが、唐突に話を継いだ。
「あんなシールの切れっ端をさ、こんなへき地にまで、書類ばさみに何冊も持ってらっしゃるんだぜ。流れてきたお貴族さまでなくて何なんだ」
「ああ、そうだろよ……、あれ? ……いやいや、やっぱりあたしゃ信じないったら」
 女房は早口になって腕を組み、優勢を嗅ぎ取ったオグデンは、自信たっぷりに馬の首をさすった。
「レオニーだってそうだ。カトリックを棄教するんだろ? カトリックと結婚してるもんは王位継承順からはずされるってんで」
「だからそれこそ冗談口だってんだよ、バカだねこの人!」
 女房は景気よく踏み板を蹴りつけて靴底の雪を落とした。座席に居心地よくおさまりながら膝掛けを広げる。
「逆だよう。バーナビーさまが英国国教会なのを、冗談で紛らしてんのさ。レオニーのおっ母さんはケベック司教区系の救護院でコックをしてるんだが、ケベック司教と言や英国国教会とは犬猿の仲だろ。雇い主の手前、休みはもらえそうにないんだって。かわいそうに」
「ふうん」
 オグデンはゆっくりと馬を引いてやりながら肩をすくめ、座席に上った。
「まあ、あれだ。モントリオールへ出るんだってフェリーで一日がかりだってえし、さらにトロントまで来いなんざ、貧乏人にはちょっと遠い旅だろうよ。子供の婚礼に立ち会えねえ親なんてたくさんいらあな。おうおうっ」
 太い声をかけてオグデンが馬を促すと、橇は風を切って走り始め、女房はぎゅっと身を縮めた。
「ほんとに遠いよね。レオニーとデレクさまはどっからどう知り合いになったんだろ」
「さて。トロントは暑苦しいとかで、銀行やなんかはモントリオールまでわざわざお出かけだったが」
「そのついでにメイド探しができたんだ。思し召しだねえ」
「川で溺れて宝玉をつかむなんてこともあるさ」
「あたしらも宝玉を拾いたいもんだね」


 湖のダイヤモンドは、春になって氷が解けると水中に落ちた。夏の日にボートの底をガリガリとこすり、なまず狙いの釣り人に舌打ちをさせたほかには人目に触れることもなく、そそっかしい魚が時折ひょいと吸い込んでも、硬いのですぐに吐き出され、比重の大きさから泥中のより深い場所へと沈んだ。
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