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トゥルーブルーロジック(10)

 翌日一番の汽車で、バーナビー母子が昼過ぎに戻った。
 前日と同様、やかましい馬車を駆ってきたオグデンは、あっという間に仕事が済んで大助かりだと言って帰っていった。メイドから若さまから老夫婦まで、全員が競って荷物おろしを手伝ったのだ。
 ごたごたとトランクが積まれた玄関ホールで、レオニーは引き合わせを待つ令嬢のように後ろにさがった。そしてバーナビー卿が紹介の口上を切り出した。
「ひとつだけ条件があるそうだ。お前に自分のフルネームを言ってほしいと、そう言っとると思うんだが」
「いいですよ」
 デレクは二つの洗礼名と輝かしき家名に、爵位継承者としての称号を載せた正式のフルネームを、心を込めて唱えた。
 ひらけゴマの呪文よろしく心の城門が開かれるとの期待に反して、レオニーはデレクを突き飛ばした。
「だから本名教えなさいっての、嘘つき!」
「レオニー!?」
「落ちぶれた子爵さまなんて、三文小説にしたって野暮な設定よ、馬鹿にして……」
 レオニーはつかまれた手首を振りほどこうともがいた。デレクはぽかんとしながら必死に引き寄せた。
 節のしっかりした長い指が、落ちきらないインク染みで汚れている。空白になった頭のスミで、デレクは「あ、こりゃいいサムシング・ブルー」と呟き、違う違うと首を振り、当面の急務に取りかかった。

「お父さん! 筆談の紙を全部見せて! 彼女に何て言ったんですか!」


 居間のソファーに、青インクの書類がぶちまけられた。
「ここだ」
 一枚を取り、バーナビー卿が文面を叩いた。
「お前をまともな勤め人にするってことで、愉快にまとまったはずなんだが」
「全然通じてませんよ。愉快どころかすごく怒ってる」
 ひそひそ話から顔を上げる。お茶のワゴンのそばにきりりと立ったレオニーはじっと親子をにらんでおり、デレクはフランス語で言ってみた。
「僕を嘘つきって呼んだね?」
「イエス、マイロード」
 レオニーは挑戦的に頭をそびやかした。
「やらかして地元にいられなくなった流れ者が、大層なニセの身分を吹聴してる。新世界にはそういうのが掃いて捨てるほどいるの」
「新世界が何? もっとゆっくりしゃべってくれないか」
「はん、新世界。わしらどこかでそんな話をしたぞ」
 新世界、新世界と呟きながら、バーナビー卿が用箋の束を繰る。デレクも横から覗いたが、眉をしかめて首を振った。
「こりゃ暗号だな。どうしてこんなに文章が細切れなんです」
「何度も話にのぼる単語を省略していくうちにこうなった」
「だからひどい誤解が起こるんですよ。レオニー、新世界がどうしたんだ?」
 デレクが促すと、レオニーはむっつりと茶器を置いた。
「新世界。知り合いのいない土地。どんな身元だって騙り放題なのよ。独身か既婚かなんて序の口。いかがわしい劇場街に自分は何の用事があったのか、はっきり言えない寮長先生の弱みに付け込んで、浮気相手を女優の卵に仕立ててみせたりするの。決して太らない食事を作れるなんて売り込んだりね。そして大物女優さまがヘソを曲げると、途端に保身に走るんだわ!」
 デレクはまぶしい目をして額の髪をかき上げた。
「レオニー、早口すぎる……」
「怒っとるんだ。相当な」
 メイドを囲んで騒いでいる男たちを尻目に、バーナビー卿夫人は女主人然として座っていた。ワゴンを引き寄せ、ティーポットを取ってカップに注ぐ。出てきたただのお湯に少しぎょっとしてから、慌てず騒がず湯をポットに戻し、茶葉を探しに台所へ向かった。
「見つけた、これだこれだ」
 卿が用箋をつかみ取る。ほらと突き出され、デレクは押し返した。
「こんな暗号分かりませんよ。もともと読むのは得意じゃないんで」
 卿は読書鏡をずり上げて仏文の断片を追った。
「新世界の貴族仲間にゃ気をつけろというような話をしたんだ、確か。皆同類に飢えているから、ひとたび称号持ちがいると噂になれば、疫病病みのデマみたいにパッと広まる。気取った奴らが『花嫁さんのフィニッシングスクール(※良家の子女が教育の仕上げをする)はどちら』なんて言ってくるだろうが、あんたこらえてくれるかねと訊ねたら、にんまり笑って心得たと、いい具合の湯たんぽを入れてくれて」
「寝かしつけられたんですよ。ふざけた軽口と思ったんだな」
 デレクはレオニーに向き直った。
「嘘ってこれかい?」
 デレクが紙を差し出すと、レオニーはある単語に指を置いた。デレクはふにゃふにゃして眠そうな父親の筆跡を、苦労して音読した。
「しょう……称号……持ち。レオニー、こいつは嘘でも冗談でもない。誓って本当の本気だ」
 天に向かって立てたデレクの指を見つめ、レオニーは「だって」と息を吐いた。
「普通信じないわよ、宮殿に専用の席があるなんて言われても」
 デレクは雑な窓拭きのようにばたばたと両手を振った。
「ウェストミンスターだ。バッキンガムじゃない。ウェストミンスター宮殿。英国議会の議事堂なんだ。今となっては登院もできない名ばかりの貴族院議員だけど、議席を持ってる。ウェストミンスターのほうだよ」
 あまり連呼するので、「ウェストミンスターのほう」を付け足すのが通常の笑いどころなのだと、レオニーにも分かった。
「王さまになれるって話は?」
「本当だ。母さんより上位の継承権保持者を、二百人から始末すればの話」
「殺しは好かないわね。王冠に血は付き物でしょうけど」
 そう言って現れたバーナビー卿夫人は、布巾で丁寧に包んだポットを抱えている。
「冷めました、すみません」
 レオニーが英語で言うと、夫人はきゅっと肩をすくめた。
「いえね、ほんのちょっと濃くしたの。みんな疲れたでしょうから」
「もらいましょう、お母さん」
 デレクがポットを受け取り、母親を座らせた。ぶらぶら歩いていってポットをワゴンに置く。
「もう少し蒸らしとこう。それでと……、フルネームが条件なんて言ったのはどうして?」
 レオニーはカップを並べながらため息を吐いた。
「前もってネタを割っといてくれるなら、どんなでっち上げにも付き合おうって決めたのよ。お貴族さまとか上流人士とか、都会で張りたい見栄もあるのかなって」
「共犯覚悟か。ありがたい。その三文小説ばりの設定が僕らの正体だったわけだけど、それはどう」
「その都度説明してもらえれば何とか……」
「レオニー、黒い瞳のお嬢さん、ベッドに誘って断られてから、君に夢中だ。どうか僕を憐れと思って、一緒になってくれないか」
 レオニーは後ずさっているうちにソファーに当たり、倒れるように座った。
「説明って……、そんなズラズラ並べられても知らないわよ!」
「だが僕のカタコトじゃ、どうしたって大づかみになるから。ひとまず手当たり次第」
「人もいるのにそんなこと言えちゃうなんて、どっかおかしいんじゃない?」
「人って、彼らフランス語は分からないよ……え?」
 デレクはぎくりとして見回した。両親ともに、壁や窓に気を取られた風を装っている。レオニーはうつむいてクッションにすがった。
「あなたの英語くさい発音なら、理解してらっしゃるってば……。新世界がどうとか、王位継承権とか、あなたを通すと会話がつながったでしょ」
「ああ、うん、そか」
 デレクはよろよろと背を向け、ティーポットに覆いかぶさった。
 一方バーナビー卿夫人は落ち着き払っていた。ソファーに散らばった用箋を集めると、顔も上げられずにいるレオニーにそっと差し出す。
「私も読めないのよ。でも、一生懸命話し合ってくれたのね。こんなにたくさん」
 ゆっくり話す夫人の英語は大方伝わり、レオニーは紙束を受け取った。
「偉そうなことを言っています、この女。恥ずかしい」
 使える範囲の英語ではとても気持ちに追いつかず、母国語による罵りが混じった。
「何さまのつもりかしら。文句のつけようがないじゃないの。無理に手を出す男じゃなくて、ちゃんと結婚させてやろうって親がいて」
 レオニーは勢いよく紙束をめくった。
「結婚が解決になりますか……。何つっぱってんの。とてもつとまりません……。んなこた分かってるわよ。嘘つかれるのはご免……。自分はどうよ、ひとつも嘘をつかずにきた?」
 夫人は困惑して夫を見た。バーナビー卿は片手を振ってみせた。
「好きにしゃべらせてやるといい。ああやって頭を整理しとるんだ」
「どなたが話をややこしくしたんでしたっけ?」
 卿の冗談ずきをなじるような調子をレオニーも察し、苦労して英語で言った。
「大ボラのほうが、ずっと素敵です。言ったそばから人は警戒できるもの。あんまりうまい嘘はかえって報いが大きいわ。どっかで歯車がきしみ始めても、軸受けがぶっ壊れるまで誰も気づけないでしょう。そんな道理も分からずに、何かあるたびうまい言い訳に逃げたのは、寸劇作家じゃない、あたしの罪」
 最後はフランス語しか出てこなくなって諦め、レオニーはインクに汚れた紙束を握り締めた。
 さかのぼれば、夢に向かってしのぎを削る娘たちの神聖な劇場を、勝手な都合で利用した。猫ずきの尼僧には環境の犠牲者のようにふるまい、交換手の女たちには一途な恋に破れたようにして同情を買った。上手にフリだけ真似ることで、真面目に生きている人を結局コケにしたのだ。
「あれは物陰で嫌なことされたんじゃなく、なんか素敵なロマンスだったって思い込みたいばっかりにね。モントリオールに出てきた途端に間違いだって分かったけど。そこで素直に負けを認めりゃよかったの。電話の言づてから寄宿学校を探し当てられちまっても、結婚してることくらい分かってたわって、面と向かって男に言えば、あくまで世慣れた思惑あってのことって顔ができるじゃない。馬鹿みたいに街まで追っかけてきたってんじゃなくさあ」
 しゃくりあげるレオニーの顔をエプロンでぬぐいながら、バーナビー卿夫人は息子を一瞥した。
「どうなの、ひと言も分からない?」
 デレクはお手上げと両手を見せた。
「早口な上、聞いたことのない用法ばかりで。こっちの俗語なのかな。ミュージックホールの口上係がこんな感じでしゃべりますね」
「お前が本国で付き合っとったのは、古典専門の女優だったしなあ」
「そうそう。だから僕のフランス語はカタコトのくせにやけにお堅い……、それ今言うことですか」
 バーナビー卿は腕を組み、うーんと唸った。
「誰の語彙も標準的ではないんだ。まともな通訳なしにはとても無理だぞ。デレク、村から筆談じゃないやつを連れといで」
 そうね、と夫人も身を乗り出した。
「あなたも行きなさい、レオニー。デレクがオグデンと口裏を合わせないよう、見張ってなくちゃならないでしょう」
 スッキリと泣きやんでいたレオニーはぽかんとして一家を見比べた。
「あのう、あたし別にそこまで疑ってませんから……」
「お行きなさい」
 それは密室ではないどこか穏当な屋外で、いっぺん二人で話し合えという意味だった。いつまでたっても村への道を折れず、デレクと湖畔をぐるぐる歩くうち、レオニーも暗号を理解した。
「黒幕がたの言うことったら……」
 夫人に借りたカシミヤのショールを掻い込み、レオニーが白い息を吐くと、デレクがちらりと振り向いた。
「レオニー?」
「何でもないわ」
 ポケットから何かを出しかけていたデレクは、凍った泥につまづいた。
「うわあ! うわあ!」
「大げさね、ひねったくらいで」
 レオニーは飛びついてデレクの長身を支えたが、デレクは足をひきずる様子もなく元気に駆けた。
「落ちた! 落ちた!」
 うろたえて両手を突き出しながら、レオニーもろとも凍った湖面へ下りる。
「デレク、何を落としたの?」
「最後のひとつなのに! 五年は暮らせる……、全く見失った、遠くへ転がったかな、小さい割れ目に落ちたかも……」
 すっかり取り乱して、デレクはしきりに氷を窺ったが、誰かが湖畔をやってくると、しゃんと立って取り繕った。
「やあ。ちっとも雪にならないねえ」
「スケートかね、バーナビーさま。ここのは悪い氷ですだよ」
「うん、緩んだり凍ったりを繰り返したんだな。表面がガタガタだ」
「くぼ地の大池にしなせえ。鏡みたいにきれいに張ったもんで、若い衆は皆あっちへ行っとりますわい」
「共同回線情報だね。親切にありがとう」
「……わけを話して手伝ってもらえばいいのに」
 結局、短い冬の日が傾くまで氷の上を這い回ってから、デレクはダイヤの粒を落としたのだと白状した。
「何の装具もない裸石だから、氷と見分けがつかないようだ……」
 うなだれているデレクの耳を、レオニーは両手で覆った。寒さでせわしなく足踏みする。
「ダイヤモンド、あたしにくれるつもりだったの?」
「や、違う。ごめん……この程度の蓄えはあるっていう、安心材料かな。まるでもぐり賭博の見せ金だ」
「あら、言い得て妙ね。情緒はないけど」
 デレクは蒼白の顔で笑い、レオニーの両手に自分の手を重ねた。ぎゅっと力を込め、震えを抑える。
「情緒は大事にしとけという教訓だな。指輪の台座でも付けてりゃ、どこへ落としたって見つけられた」
「それか、氷がもう少し滑らかだったらよかったわ。鏡みたいに反射が均一ならきっと」
「スケートに繰り出した若い衆が、どこまでも蹴って行ったろうね」
 引きつけたように笑いながら、凍える手をさすり合った。この非常時、必死の軽口に付き合うということは、バーナビーの伝統を受け入れたってことになりますよ、なりますねと、言語以前の意思疎通が往復し、デレクはショールでレオニーをしっかりと包んだ。
「年寄り二人には内緒にしといてくれないか。頼みのダイヤがもうないなんて、心臓が止まってしまう」
「それだっていつかあっさり見抜かれちゃうんじゃない?」
「自力で看破させてやるといくぶん蘇生が早い」
 レオニーはやれやれと笑った。
「難しいお芝居ね」
「演劇解釈としては古典的だよ。役者と客は、虚偽を挟んで常に共犯関係にある」
「この場合どっちがお客?」
「えーと、金を払うほう? まあひとまずは、総員すっからかんだ!」
 虚勢でかすれた声が、冬空に響いた。見上げると、降る気もない薄い雲が、だんだらのオレンジに染められている。
「夕焼けは羊飼いの喜び」
 デレクが呟き、レオニーは首をかしげた。
「牛飼いじゃなくて?」
「どちらでも。翌日が晴れるって意味の諺だよ。牛飼いも羊飼いも、明日は働けってことさ!」
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