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ウォーターフォールハネムーン(1)

『トロント交換局』
 女の声が早口で言った。
 電話ブースの紳士は、おずおずと送話管に口を寄せた。
「アロー、番号を知りたいんだが、トロントの……」
 交換手は「案内におつなぎします」と言うが早いかブチリと線を引っこ抜いた。紳士は面食らって目をぱちくりさせた。
 またブツンと音がして、回線が復活した。
『番号案内。ご用件をどうぞ』
「フランス語を頼む」
『お待ちを』
 引きちぎったりぶっ刺したりが続くあいだ、紳士は時間の止まる魔法をかけられた人のように待った。
 挨拶抜きのフランス語が「番号案内」と告げ、魔法は解けた。
「あー、番号を知りたいんだ」
『住所はお分かりですか』
「いや。トロントは初めてなんだ。芝居見物でもと思うんだが、劇場はあるのかな」
『ございます。軽演劇もオペラ上演も盛んですわ』
「歌劇はよしとこう。あまりふざけない、芸術的な演目がかかるのは?」
 案内係は劇場をひとつ挙げ、紳士は狭い平台に紙片を広げてサラサラとメモを取った。
「その辺り、ぶらっと見て歩ける場所はあるのかい。芝居のついでに寄れるような」
 案内係は中心街の名所を並べ、水力発電で財をなした富豪の邸宅まで紹介したあと、流れるように付け加えた。
『湖へお出になりますと、対岸にはもちろんナイアガラ瀑布がございます。オンタリオ湖とエリー湖の高低差がそのまま滝の落差であり水量は毎分……』
「あ、今ナイアガラにいるんだ。名高い滝は堪能したよ」
 紳士はメモを裏返し、滝つぼツアーの案内図を眺めた。
「次はどこかびしょびしょにならずに済む場所をと思ってね。僕らアメリカ側にいるんだが、出国すればそちらへ行けるよね?」
『はい。連絡橋を渡られまして、そこからトロントフェリーをご利用いただけます』
「よかった。じゃトロント決定」
 紳士はメモに力強い二重線を引いた。
「ホテルもこれから決めるんだ。船着場に近い便利なところに、手ごろなのはあるかい」
 案内係は二つ三つ候補を挙げてから、心配げに付け加えた。
『空き室が十分でないかもしれませんわ。急に引き移られるんですのね』
「まあね。観光名所だと言っても、つまるところナイアガラあたりは国境ぎわのへき地だろう。ニューヨークの摩天楼に圧倒されたあとではどうも拍子抜けがしてさ。ふと案内図を見りゃ、対岸には近代都市トロントが控えてるじゃないか」
『もちろんですわ』
 案内係はニューヨークに行ったことはなかったが、いながらにして見てきたようにしゃべるプロである以上、そこは大した問題ではなかった。
『ニューヨーク、建物もあれくらい細く作ればそこそこ高さは出ますわね。それに比べてトロントにはトロリーや高架鉄道、こけおどしでない最新技術が街の随所に……』
「あ、文化方面の情報を頼むよ。産業技術には興味がないみたいでさ、彼女。つまりうちのー、妻は」
 マイクを押さえた案内係がくすくす笑いを隠したかのように、しばらく間があった。
『素敵な新婚旅行になるとよろしいわね』
 紳士は壁に向かってじたばたと身振りをした。
「いや、ほんの仕事のついでさ。ハネムーンならナイアガラへってのは鉄道会社が打ち出した戦略なんだが、自動車産業に出資したがってる投資家がいて、こういう観光地への足に、これからは自動車が使われるようになるかもしれないって言うんだ。新婚のお前ついでに見て来いと命じられて、はるばるやって来たわけ」
 案内係は「へえー」とくだけた相槌を打ってから、慌てて咳払いした。
『気前のいい雇い主で羨ましいですわ。投資の方向はどうかと思いますけど。立派な汽車が走ってるのに、わざわざ自動車を使う人なんていませんもの』
「だろうね。自動車産業の調査なら、ちょっと行けばデトロイトがあるけど、妻はT型フォードの組み立てなんか見てもつまらないって言うんだ。で、トロントの文化的側面に食いついてくれないかと」
『気遣いのいい旦那さまで、恵まれてらっしゃるわ。あたしなんかトロントへ越してくるまでの汽車旅がハネムーンがわりでしたけど、膝がくっつくような三等席で、夫の両親の愚痴を聴かされっぱなし』
 ここで紳士は見ず知らずの女とおしゃべりする奇妙さにようやく気づき、自分がしゃべりすぎた気詰まりから相手に倍しゃべらせることに決めた。
「うるさい年寄りは一等席に片づけるべきだったね」
『あら、夫と同じようなことおっしゃるわ。でもどうしてもお金が足りなくて。両親は、夫があたしに蓄えをやってしまったと思いこんでるんですけどね』
「そりゃ災難。本当は? ご亭主がバクチでスッたとか」
『賭け事はしない人ですわ。本当は二人して失くしてしまったの。ダイヤの粒なんですけど』
「ダイヤ!」
『そんな大それたドジをいつもいつも蒸し返されるよりは、ぼんくら息子が妻に弱くて宝石をやっちまったと思われてるほうがよっぽどましですわ、そうじゃありません……嫌だ、余計なおしゃべり。あの、他にご用は』
 ガラリと口調を変えてしまった案内係を引き止めるように、ピーターは電話機のつやつやした肩口に手をかけた。
「ね、そのダイヤの話面白いな。偶然だけど、僕の妻も僕がダイヤを隠匿したと思いこんでるんだ。どうしてそんなこと思いつくんだろう」
 回線越しのレオニーは、ちょっと考えてからヘッドセットのマイクに口を寄せた。
『……もしかして、冗談みたいな言い訳なさらなかった? とても理屈が通っていて、だからこそちょっと出来すぎて聞こえるような』
 ピーターは電話ブースの格子から外をのぞいた。テーブルに所在なさげなクレアがいる。
「うん、確かにそうかも。でもみんな、本当に本当のことなんだぜ」
『言えば言うほど疑わしく聞こえますわ。奥さまはもう、ご自分が信じたいことしかお信じにならないわよ』
「真実は無力だなあ」
『あらでも、そうしてらっしゃるのがきっとお好きなのよ。ダイヤのことはお見通しって顔なさるとき、奥さまちょっと楽しそうじゃありません?』
「んん、まあ」
『家庭の平和のためにはこの際、盗人の汚名も甘んじてお受けになるべきね』
 うちの場合甘んじなくても盗人なんだよと言う代わりに、ピーターはぐるりと天を仰いだ。
「ニューヨークでシネマトグラフを観たら、まさに盗難ダイヤをめぐるドタバタ喜劇だったんだ。巧いコメディアンでつい吹きだしちまうんだが、そうすると隣で彼女が睨んでてさ」
『キネトスコープはいかがでしょう。新聞社に常設展示がございます。西部カナダの雄大な風景だの、インディアンの珍しい風俗だの、ゆったりした見物ができますわ。シネマトグラフは大人気ですけど、大勢で観ますから、どうしても演目がやかましいものになりますわね』
「なるほど」
 ピーターは巧みな弁舌に感じ入ってメモを取った。
「キネトスコープといや、流行の過ぎた覗きからくりなのに、何だかよさげに思えてくるから不思議だなあ、いやその、ごめん」
『いいえ。シネマトグラフ専門の大劇場はさすがにございませんから。こうとしか張り合いようがありませんの』
「楽しみに見に行くよ。妻が僕の口車に乗ってくれれば」
『まあ』
「本当のことを言ってるときに限って、やけに疑われるんだよなあ」
『あの、他のときにはどっさり嘘を吐いてるみたいに聞こえますけど』
「や、鋭いな。……実は、彼女にはずっと嘘ばかり吐いてきたんだ。いざ隠し事が何もなくなると落ち着かなくて。どう振る舞えば自然なのかとか、自然でないことを考えちまう」
『嘘吐くコツは、上手に真実を混ぜることでしょ。ならあなたは、嘘の数だけ真実をお話しになってきたんだわ。ある意味正直だったって言えないかしら』
「すごい理屈だな」
『理屈は夫の得意分野ですの。言いくるめられないように自然と鍛錬を積んだんですわ』
「何だかいい感じだなあ。僕らは、話すことは気遣いであふれてるんだが、どこかで了解が食い違ってるというか、違和感があるというか」
『んー、それだって愛情のひとつですわ』
「違和感が愛情? ひねりすぎた前衛詩みたいだけど」
『すれ違ってるなあという違和感を、気遣いでごまかしてまで、一緒にいたいと思ってらっしゃるのよ、あなたがたは。こういう考え方どうです』
「あんたにかかっちゃ白いものも黒くなる」
『どしゃ降りも言いようでお天気にして差し上げますわ。三流ホテルでも貴族の常宿みたいに申し上げますし。いえあのっ、ご紹介したのはちゃんとしたところですよ……』
 ピーターが壁にすがって笑うあいだ、レオニーはゆっくり三つ数えてから調子を立て直した。
『コホン、他にご用は』
「ない。どしゃ降りのときはまた頼むよ」
『お天気は数日もちますわ。よいご旅行を』
 ブツンと音を立てて回線が接続を落とし、ピーターとレオニーは口元に微笑みの切れ端をぶら下げたまま、ひとりに戻った。
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