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トゥルーブルーロジック(9)

 静かになった台所。
 ストーブでは石炭がカンカンと熾り、ようやく食事にありついたレオニーが黙々と食べるかたわらで、バーナビー卿は万年筆からチーズをぬぐっていた。
「落ちない、ああ……」
 灯りにペンをかざす。磨き込まれた黒いキャップには、キッシュの厚みがくっきりと計測されていた。
「銀磨きでもダメでした? ツヤ出し剤も?」
 レオニーは磨き粉の箱を順に指さした。卿はどれにも力なく首を振り、キャップ脇のクリップを愛おしげになでた。
 優美な銀のクリップは細部までピカピカになっている。狭い隙間にフォーク磨き用ピックが活躍したのだが、軸材の黒いエボナイトは熱で変質してしまったらしい。がんこな曇りが居座っていた。
「ああ……」
「脂ですしね」
「はうあ……」
「食べ物でふざけるからですよ」
 レオニーは卿の嘆きを尻目にむしゃむしゃ食べた。
「人をギョッとさせることにばかりかまけてると、いつかひどい目に遭うって教訓でしょうよ」
「反省せんといかんなあ」
 卿はぐったりと呟いて、染み浮かしの缶を裏返し、未練たらしく効能書きを眺めた。文房具に関する文言はどこにもない。溶けたチーズには気をつけろという注意書きも。
「ああいう大振りが、以前はウケたんだ。どんな晩餐でもあんなグツグツ煮立った食べ物は出んかったし」
 言い訳めいた抑揚に、レオニーは軽く頭を振ってみせた。
「これを機会に、浮ついた冗談口からは足を洗えばどうです」
「庶民の中へ入るなら、改めるべきだなあ」
 何となく意思の疎通を感じて顔を見合わせる。
「その場限りの道化口上なんて、寸劇役者に任せとくもんですよ」
「誰も本気で笑っとったわけじゃない。宴会が締まりゃいいんでな」
 呟きながら探り合ったあと、やはり何も分からず互いに肩をすくめた。
 レオニーはキッシュの表面にフォークの穴で慎重な区分を付けた。
「たどれば王位も請求できるとか、宮殿に専用の席があるとか。大ボラにもほどがあると思うわ」
「皆退屈しとったんだ。だるい宴会か、人生にな。道化を買って出る有志ボランティアは、歓迎されたもんさ」
 卿は背中を丸め、まだ小布でペンをこすっている。
「ここらの衆は爵位称号に疎くて、もひとつ手ごたえに乏しいが……。そもそも厭世や気鬱に縁がないのだろう。羨ましいことだよ」
 呟きながら卿がキャップをはずし、いざと軸側にはめたので、レオニーは紙束を掻き分けて新しい紙を探した。
 卿は「あ、あ」と手を振り白紙を断った。空中に構えたまま何も書かず、持ち方をいくつか試している。レオニーは自分でもフォークをペンのように持ち、じりじりと持ち手をずらしてみた。
「うんと浅く持てば、汚れんとこが隠れやしないかって? ムリよ。軸のお尻にはめたキャップの、そのまた先だもの」
 最後は二人とも魔法の杖をつまんで振るような手つきになった。卿はしょんぼりとキャップを戻した。
「何かに似てると思ったらこの感じ、猫だわ」
 レオニーは笑い出しそうになるのをこらえつつ、ぱくりと頬張った。
「普段分かるのは腹具合とか大雑把なことだけなのに、このバケツがギラギラしてやなんだなとか、細かいことがひょっと分かるときがあるのよね」
 もぐもぐと食べながら皿に目を落とす。
「本当はあなた、都会ぐらしが懐かしいんでしょう。デレクが独身でなくなれば、縁組屋の興味も惹かないし、過去のナニヤラもそっとしといてもらえるし?」
 ちらりと見ると、卿はため息を吐きながらストーブで足の裏をあぶっている。
「旧家の若さまがさ、へき地でハウスメイドとややこしいことになっちゃって、結婚だけは何とか格好つけたけど、体裁の悪い妻を社交界には連れ出せないでいる。なーんて顔でおさまりかえってればいいんですものね。たとえ狭い集合住宅でも」
「どうだろう、他のところも熱してしまっては。ひとつ思い切って」
「何です?」
「全体が曇っとりゃ目立たんのじゃないか? も一度キッシュをグツグツやってくれ、あ、もうだいぶ食っとるな……」
 大皿の残りを見て気落ちしている様子が分かり、レオニーは目をぱちくりさせた。
「まだ食べます? すごいおじいさんね」
 ナイフの先で、これぐらい、と分量を尋ねる。卿が片手できっぱりと制し、レオニーは慌てて首を縮めた。
「悪口は通じるわ……。いいからお食べなさいな、ほらチーズは除けて、おいものとこだけでも?」
「いいんだ。万年筆のチーズ巻き。そこまでやるとアホらしい気がしてきた」
「すねなくてもいいじゃない。誰だって貪欲の罪には陥りがちなものよ。母さんのレシピだもの」
 救護院の厨房で、スープの大鍋に君臨していたレオニーの母親は、クリームもバターもたっぷりと使った。コックの家族は厨房で食事を取ることが許されていたので、まず自分たち用にひと鉢取り、残りを行列の混み具合によって薄めるのが、レオニーの仕事だった。
 ある冬、鍋にドブドブと塩水を足しているレオニーの後ろで、誰かが「ああっ」と言った。男は司教区が慈善公演のために雇った役者連中のひとりで、施し用の食事では腹から声が出ないと文句をつけに来たのだった。
 じゅうじゅう焼けるかたまり肉を男が物欲しげに見るので、レオニーは自分たちの鉢をそっくり渡した。寄付金を落としてくれる来賓用の特別料理をやるわけにはいかない。スープは仕事に対する正当な取り分のつもりではいたが、男がほのめかすとおり、院長さまにお伺いを立てれば、それはやはり貧しい人から掠め取る行為であるかもしれないのだ。そのへんあえて曖昧にしているのを分かった上での、ていのいい脅迫だった。ところが、
「俺も同じことするんじゃ世話ねえな。貪欲の罪からは身を清く保とう」
 男は急に気を変えて、何も取らずに引き下がった。
 レオニーは下働きの仲間と通廊の端から劇を観た。七つの大罪を巡るどの場面にも男は登場しなかった。流血なし、決闘なしの上品な教訓劇に同僚たちが飽き始めた頃、男は背後から現れ、唇に指を立ててレオニーを幔幕の陰に引っ張り込んだ。
 男は主催者の意に沿わないセリフを現場で直す寸劇作家で、幕が上がればずっとヒマなのだった。レオニーは「劇に出ない人が食事に一番文句を言ってたわけ?」とからかった。
 見事にやり込められたとか、そういう機転は女優向きだとか、気分のよくなる言葉はすべてフランス語で話され、レオニーはもちろんよく理解したが、慈善公演には使えないタイプの踊り子の妻が、街で男を待っていることまでは分からなかった。
 高慢の罪も色欲の罪も、最後は大いなる叡智にしりぞけられ、神を讃えて芝居は終わった。ぺこぺことお辞儀をしながら口上係は「いずれまた!」と言ったがそれは終演の常套句で、次の興行のあてはなく、彼らはまとまった一座でさえなかった。司教区の予算内で雇える役者が、そのつど斡旋されるだけなのだ。
 レオニーは教会のつてを頼ってモントリオールに出た。料理女は食いはぐれがないと信じている母親は、寄宿学校の厨房なら申し分ないと有難がった。子供はよく食べるから、余分のお代わりを作って作りすぎということはないのだ。
 レオニーはフェリーがモントリオール島に着岸してすぐ、生まれて初めて電話帳を調べた。ある劇場で作家契約をしているとだけ男は言った。都会では猫も杓子も電話帳に番号を載せているという噂どおり、劇場は枠付きの数行を割いて、切符売り場、楽屋呼び出し、支配人の個人オフィスまで、ズラリと番号を並べていた。レオニーは楽屋呼び出しで名前を告げた。
 長いこと待たされたあげく本人は捕まらず、「折り返しかけ直させるとのことです」という決まり文句で、回線が切られかけた。
「でもその電話、あたしは駅で待たなきゃいけないの? うちに電話なんかないわ、救護院へかけるって意味?」
 電話に慣れないレオニーが細かな事情まで並べたてると、回線の向こうで誰かがため息を吐き、「この男、絶対結婚してるわ」と言った。数人の物憂げな相づちが同意した。交換手には何でもお見通しなのだった。超過勤務で、ヘッドセットの口元を押さえ忘れるほかは。
 交換手は時代の花形だが、給料ぶんだけこき使われる。昔ながらの下女奉公は、楽をしようと思えばやりようがあった。厨房で働き始めるとレオニーはまだまだ下っ端で、生徒たちの次の食事時間までに山のような食器を洗い終えることだけ考えておればよく、人並みの量を食べさせてもらえ、こっそり猫にエサをやる息抜きもでき、とはいえたびたび抜け出して男と会っているとなると、尼僧院付きの寄宿学校としては、叱責だけで済む話ではなかった。
 あえなく感化院送り、とまではいかずに済んだ。うろついていた界隈はいかがわしいながら一応劇場街、相手の男もケベック演劇協会に登録し、司教区の慈善公演に派遣されたこともある作家だということで、たぶらかされて道ならぬ関係に陥ったのではなく、ただの女優志望ということでおさまりがついた。女優志望の愚かな娘らしく劇場で下働きの仕事をもらい、レオニーは寄宿学校を出た。
 派手なレビューとやかましい寸劇が売りの劇場街で、野心いっぱいの女たちと部屋を分け合って暮らすなら、本気で勝負を挑むか、下女扱いを受け入れるかのどちらかになる。レオニーは女たちの身の回りの世話を引き受け、ヒラヒラしたドレスをアイロンで溶かしたり靴下を破ったりして、あっという間に追い出された。丈夫なリネンのシーツなら一度に何十枚でも洗ってきたが、安物の人絹や機械編みのレースは扱いが厄介なのだ。
 得意はやはり台所仕事というわけで、一座を仕切る看板女優が自邸の住み込みコックの口をくれた。後から分かったことだが、レオニーをコックにと名指ししたその女優は太り気味なのを気にしていて、あんな食事じゃ誰も太れないという救護院がらみの冗談を真に受けただけだった。レオニーはまだ作家の男と会っていて、小さな群集セリフ欲しさに作家と寝るような卑劣な行為は、叩き上げの看板女優の逆鱗に触れた。
 故郷までのフェリー代を借りるしかないと、レオニーは寄宿学校へ戻った。猫ずきの尼僧に相談したところが、元職業婦人の彼女も自由になる現金はなく、代わりに昔の同僚を紹介してくれた。
 レオニーは交換手の女たちの共同部屋に転がり込んだ。電話局はいつでも求人があるといってレオニーも誘われたが、身元保証人のあてがなかった。個人の秘密を扱う職務上、大手の電話会社は交換手に尼さん並みの入信誓約を求めるようになっていた。尼僧院を追い出された経歴の持ち主はお呼びでなかった。
 レオニーは新聞広告を頼りに働き口を探した。電話局は加入勧誘の営業調査に土地の新聞を参考にしており、いらなくなった新聞を交換手たちが持ち帰ってくれた。モントリオールの他にオタワ、トロントなど広範囲の求人を見られるのはよかったが、いかんせん情報が古く、条件のいいものはとうに人が決まっていて、身元照会を求められない仕事となると怪しげなものも多かった。決めあぐねていると狭い納戸も居心地がよくなってくる。床にじか置きのマットレスがしんしんと冷えても、真ん中を譲れば猫が一緒に寝てくれた。眠れぬ夜も朝までほかほかとまるで湯たんぽを抱いたように……
「そうだ、湯たんぽ!」
 レオニーは飛び上がってストーブの後ろに駆けた。
 たらいの中で、フタも締めずに忘れられていた陶器の湯たんぽはとうに冷めていて、バーナビー卿も物憂げに「あー」と言った。
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