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トゥルーブルーロジック(8)

「名案だ、賛成だ、断然それだ」
 卿は跳ねまわる書体で『ウィ! ウィ!』と書いた。レオニーは落ち着き払って紙を引き寄せた。
『通訳はしてもらうけど、お得意の洒落も格言も一切なしよ。あたしたちにしゃべらせて』
「もちろんだ。最後は本人同士だ」
『メイドとしみったれた所帯を持つのがよほど嫌なら、プライドなんかゴミ箱へ捨てて、令嬢に養ってもらうといいわ。あたしは素敵なお妾さんになって、ダイヤをもらうから』
「そうしよう、そうしよう」
 レオニーはやれやれと肘を付いた。卿は終始小鼻をぷくぷくさせていて、ときどき眉を上げてみせる表情は、どう見ても「いいぞ、バーナビーのやり方を心得てきたな」と言っている。
 対等を装った取り引きなど、ほんの言葉遊びにすぎないのだ。
『我ら夫婦が最後に頼る命の保険、ダイヤは決して渡さぬぞ。そなたには、必ずや主婦に身を落としてもらう』
『奥さんになってメイドを雇って、あらやだ、その娘が家の隅っこで、誰かとこそこそし始めたらどうしよう?』
『年増を雇うべし。このだだっ広い家は引き払うゆえ、近代設備整うトロントなれば、住み込みメイドの仕事量にもあらず、通いで間に合おう。そなた女主人として年かさの雇い人を使えるか。元メイドと侮らることなかれ』
「待って待って。引っ越しは本当なの、冗談なの、どっち」
 レオニーはせわしなく読み返した。卿の長文は絶好調で、文意はますます明瞭だが、どの単語にも裏の含みがあるような気がしてくる。
「本気と冗談はどうやって見分けるの。見分けるつもりなんて、そもそもないの。バーナビー式って」
 口の中で呟くばかりのレオニーに、卿はペンを押しつけた。
「書いてくれねば分からんよ」
「本当に届くかどうかも分からないのに……何を言えばいいの」
 バーナビーの冗談口が、密かな失意を核にしていることはレオニーにも分かった。そこにあるとは認めたくもない劣等意識を、雑多なおふざけと一緒くたに混ぜ、パンだねみたいに膨らましてしまうのだ。やりすぎると本来の形を見失うが、冗談と本気の境を消し去ることができるなら、それはそれで利点があった。心の奥に隠していたどんな馬鹿馬鹿しい期待も、冗談のフリで吐き出すことができる。
『黒幕のお指図には、そりゃ従いますけどね』
 レオニーは精一杯軽口らしくペンを走らせた。
『デレクにも、彼なりの計画があったかもしれないのよ。そしてそっちのほうがずっと素敵な提案だったかもしれない。全部あなたが台無しにしたかもしれないんだから、そこ忘れないでよね』
「素敵な提案?」
「言うところのハッピーエンディングってやつよ」
「二人が互いに微笑むと、愛が空中にあふれ、永遠に幸せに暮らしましたとさ……? 請け合おう。そんなものはない」
「あら、自信たっぷり」
 卿は大文字を巻きヒゲで飾り、のびやかに書いた。
『あのぼんくらは、分かっていない。家庭の雇い人と、家庭で睦みあうかぎり、それは支配関係である』
 そうだ。デレクが忍んで来れば拒まなかったかもしれない。時機を見て関係の正常化をねだれば叶ったかもしれない。が、どんなに誠実らしく振舞ったところで、立場の弱さから言いなりになったという、冷たいものを抱えていくことにはなるだろう。始めをかけ違ったばっかりに。
「何だ、やっぱり弱気か。しゃんとせい、しゃんと」
 急き立てられて、レオニーはのろのろとペンを取った。
『私たちは、どうすべきだとおっしゃるの』
『おっしゃることは何もない。余計な茶々は控えると決めた』
 レオニーは空気が抜けるように笑った。
「それは面子が揃ってからでいいわ。今のうちに、たんとうまいことおっしゃいな」
「ではどうすべきでないかだけ、言わせてもらうとしよう」
「あーあ、また大文字をくるくる巻いちゃって」
 頭を寄せてのぞきこむ紙の上に、文字が躍った。
『入り口を間違うと、晩餐の上席には案内されない』
 人を介して行儀よく知り合う男女のように、二人を引き合わせようというのだ。レオニーは瞬きして首を振った。
「人間のほうが、そう上等な内容じゃなかったら?」
「また混ぜっ返しとるな。人がうまいこと言うと、うまいこと切り返さずにおれんのかねこの娘は……」
 無理して上席につかなくたって、食事ができればそれでいいはず。上席って具体的に何だ、庶民より上だと威張ること、銀行で金を借りられること? 修辞をいじり回すのにも疲れ、レオニーは用箋を押しやった。
 まだまだやる気の卿がペンを取った。
『異論あらば。いかようにも受けて立つ』
「うまいことの言い合いじゃ負けますわ」
 諧謔、反語、韜晦、あらゆる弁論術に通じていても、愛の言葉など死んだって言わない人たちだろう。気まぐれな冗談口にときおり何かの切れ端を見出せたら、それで満足すべきなのだろう。欲を言っては切りがないのだ、とレオニーは武器を取らず、卿がまた書いた。
『余の仕事はこれまで。そなたらを、違う入り口に立たせた』
「そうね」
『そなたの仕事はあっちで煮立っているが』
 ストーブでチーズがぶじぶじいう音に気づき、レオニーは慌てて立った。大皿を火から下ろす。
 卿は最後のひとかけを口に放り込み、難しい顔でペンを取った。
『家計の逼迫は、そなたにも責任の一端あり。安手の芋・豆とて工夫し整えるよいコックなれど、気でも違ったかというほどにバターを使う。クリームも』
「何ですって」
 レオニーはつかんだナイフをチラつかせた。
「英国人に言われたくないわね。お代わり?」
 卿はこくんとうなずき、大皿の端っこを指さした。レオニーはよく焼けてカリカリになったところを切り分けた。
「これが、べらぼうに旨いからかなわん」
 ふわふわのフィリングにフォークを入れた卿はにんまりとしていて、これは書いてもらわなくても分かった。レオニーはふと、細かい出費をこぼすのは、軽口の前段だったのだと腑に落ちた。
 満足げにもぐもぐする卿と視線を交わせば、即興劇の片棒を担がされた気分だ。昔、早口で冗談ずきの雇い主に、つい道を誤ったメイドがいたというのも、分かる気がした。
「奥さまは大変だったろうな」
 若いレオニーにはそれ以上想像が追いつかず、思い浮かべる空想は、もう少し背が高く、もう少しはっきりしゃべるバーナビーの姿になって、湖を巡る小道を意気揚々と歩いていた。
 台所に立ったレオニーが「なんにもない」と騒いだ日のことだ。これっぽっちじゃ小さいスフレひとつがやっとだと言って二日分を使い切ってみせた「小さいスフレ」が、しみったれの当主をして食費枠の増額に踏み切らせた。レオニーは若さまと連れ立って出かけ、村の商店を巡った。
 配達量の倍加を交渉しようにも、すでに商売人たちの好意は限界まで活用され尽くしているとのことだったが、雑貨屋オグデンは新聞に写真が載った王侯絡みの小話に引き込まれているうちに、卵売りは家畜病の新薬に関する軽妙な講義を受けているうちに、搾乳小屋のかみさんはバター鍋にへたり込んで大笑いさせられているうちに、たまったツケのことはもうしばらく忘れていようと、口を揃えて請け合うことになった。
 ひとつ交渉を終えるごとに、デレクはさっきのやり取りのどこがどう工夫になっているかを、いちいちレオニーに説明した。身振りが頼りのカタコト会話では、ジョークの構造が過不足なく伝わることなどただの一度もなかったが、買い物を終えて戻ってからも、レオニーはぷうっと吹き出す笑いの発作をしばらく引きずった。子供の頃から見慣れた手口がこうも有効かと若さまが思い込んだからって、責任は持てない。
「どうぞ」
 卿が丸椅子を叩いた。ぼんやり立っているレオニーが、同席を遠慮しているように見えたらしい。
「ヨアグレイス(閣下)」
 レオニーはちょんと片足を引いてから座った。
 卿は眉をぴくりとさせてナイフを取り、客人にするようにキッシュを切り分け始めた。
「その呼びかけは、子爵位には不適当なんだがね。あんたらにはどうでもいいことだろうが」
 深々とため息して、卿は自分にも小さいひと切れを切り取る。
「村の衆にも大雑把にサーで構わないとは言っとるが、オグデンなぞたまにヨアハイネス(陛下)だの言いおるし、敬意として受け入れはするが」
『あたし、嘘つかれるんでなきゃいいわ。嘘だけはご免よ』
 レオニーは決然と書き、重要署名のように末尾をシュッと払った。「むん」とうなずいて、卿は下段に続けた。
『バーナビーは嘘はつかない。誤解を訂正せずにおくことはあるが』
「そこが問題なんだってば。何がほんとか結局分かんないじゃない」
 一筆書いては翻訳、のやり取りがまた始まりそうで、レオニーは威嚇するようにフォークを振った。自分のキッシュに突き立てる。
「切りがないわ。こっちは疲れて腹ペコなの」
「そうだ。食おう食おう」
 卿は万年筆のキャップを締め、見回してから大皿のキッシュにぐさりと立てた。
 呆気にとられているレオニーに、卿はキッシュの端からペンまでの距離を得意げに示した。
「ここまで食うあいだは休戦」
「ベリーグッド、マイロード」
 かしこまりましたという召使いの定型句を、座ったままのレオニーは小腰もかがめず言ったので、卿がへへえと頭を垂れると権勢が反転し、「機転を褒めてつかわす」みたいな響きになった。レオニーはぐったりと天井を仰いだ。
「もうやだ、みんな駄洒落にされる……」
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