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トゥルーブルーロジック(7)

「てっきりデレクだと……、父親が仕方なく尻拭いして……」
 互いに目をぱちくりさせていても、話は進まない。レオニーはあたふたと書いた。
『この種の処置の全権は、いつもあなたに任されたとか。一体どんな理由で?』
 何の話か、と卿が両手を広げる。レオニーはもう一語加えた。
『懲罰として?』
 卿は澄ましてペンを取った。
『懲罰とは何ほどの関わり、余にありやなしや。現在、愚息の話をするなりや』
「どうなさったの、お得意の修辞がガタガタよ」
 レオニーは意地悪く言いながら用箋をかき回した。塗りつぶしのあるページを引っぱり出す。
『この種の処置はいつも』
 別紙の端に書いたのは、インク痕から盗み読んだ一文だ。青く塗られた部分に合わせると ―― 、幅も字数もぴたりと合った。
「雇い人との問題を起こす常習犯がいる、というように読めるわ。これがぼんくら息子でないのなら、じゃあ誰よ?」
 卿は紙をにらんで黙ってしまった。
 単なる筆の誤り、慣れない外国語を使い間違えたという顔で済ますこともできた。それはメイドに限らず、女優・歌手との折衝も含むのだと言い抜けることも。どう来る……、レオニーが身構えていると、卿は、むんと唸ってペンをつかんだ。
『余も若くて色々あった』
 付け足し条項を慌てて乗っけることはせず、旦那さまは素直にごまかしを認めた。
『懲罰、ではなく、奥の申すところによれば、悔悛の行。紹介状や一時金など雑事に頭を絞ることで、のぼせが冷める』
「ああそう」
 レオニーは呆れていいのか感心していいのか分からず、結局感心した。
「お仕置きとしちゃ陰湿だけど、効果あるかもね」
「えい、くそ。わしも予防線を諦めねばならんようだ」
 卿は罵りながらサラサラ書いた。
『いかにも余が自らの後始末として問題メイドと会見を持った。余の知らぬうちにメイドのほうを追い出すなどしては、悲恋のお膳立てばかり整う。逆効果』
『賢い工夫だわ。誰の考え?』
『雇用人事を本来担う、女中頭の進言による』
「プロの意見ってわけ。カッカ来てる女同士でやり合うよりロスの少ないボイラー構造ではある、けど」
 レオニーはすうっと目を細めた。
『もうご自分でなさればって、プロが投げ出したくなるくらい、たびたびあったのでは? その悔悛の機会』
「そうだよ、いかんかね」
 卿は粗末な丸椅子で精一杯ふんぞり返った。
『おかげでメイドの首切りなれば、慰撫口止め買収泣き落とし、諸事全般お手の物である。こたびも奥より全幅の信頼を寄せられた。今こそ名手の腕の見せどころなりと』
「名手、何それ」
 呟きだけで疑義のニュアンスは伝わり、卿はすぐさま書き足した。
『女を、めそめそ考えているのが馬鹿らしいような気持ちにさせる名手』
 不覚にも吹き出してから、レオニーは儀式めかして頭を垂れた。恭しくペンを持つ。
『確かに名手のお手並と認めますわ。もうちょっとで私もすがすがしく出て行ってしまえそう』
「そりゃいかん」
『乙女よ、本題に戻るべし』
『何でしたっけ、本題って』
『考えなしの模倣にはしった馬鹿者についてなり』
「あら、違うわよ」
 おしゃべりの延長のように調子よく書き、気軽にペンがやり取りされる。
『どうしてあなたがしゃしゃり出てきたかってことじゃなかった?』
「そう。馬鹿者に言いたいことがあるわけさ。あれはわしのやり方を見て育ち……」
 作文を書く小学生のように口の中で呟きながら、卿は綴った。
『愚息は余のやり方を見て育ち、雇い人とこそこそする人種なりと、常々小馬鹿にしてくれた。今こそやーいと笑ってやるつもり』
 さっと読んだレオニーが息を震わせているあいだ、喝采を受けているつもりのバーナビー卿はにんまりとおさまり返ったが、レオニーが笑ったのは楽しい冗談口を気に入ったからではなかった。
「ふっ、ふふ」
 ようやく分かったのだ。女優だのオペラ歌手だのの話を聞かされたばかりだというのに、妙に気持ちが浮き立っていたのはなぜなのか。
 よく似た表現を最近聞いた。
「……自分は雇い人とこそこそするような人種じゃないと思っていたのにな」
 しゃべり言葉と書き言葉の差はあれ、はめ合わせたような構文に特徴があった。不器用な翻訳の、元はおそらく同じ英語表現だ。雇い人とこそこそする人種。
 名探偵の証拠がためさながら、二方向から発言の裏が取れたのかもしれない。もどかしいカタコト暮らしのレオニーにとって、それはどんな宝石より固く確かなものに思えた。
「ダイヤモンドよりも。……やめてよ」
 我ながら大げさな比喩に、レオニーは両手でそこらをあおいだ。うまく行くはずがない。デレクがひとつ本当を言ったというだけで、こうも簡単に幸せになれるようでは。
 結局のところ、だまされたと言って騒ぐのは、信じていたと認めることだった。レオニーは信じたかった。お調子男のひねり出す一言一句まで。
「降参。分かった。聞くわ。いいえ、聞かせて」
 肺の底でひくひくする笑いを抑えながら、レオニーはペンを取った。
「どうだったのよ、ねえ」
「何が」
「やーいと言われて、デレクは何て答えたの」
「……知らん」
「はい?」
 ぽかんとしてからレオニーは座りなおした。既出の単語を指さして間に合わせる省略文はやめ、きっちりと文法を整える。
『ぼんくらには何も言わせんとか、威勢のいい啖呵を切ったんでしょう。ぼんくらはきっとその前に、何かぼんくらなことを言ったんでしょう。それを聞きたいの』
「あー、あやつとは何も話しとらん」
 卿は単純明快に綴った。紙を縦にしても横にしても、別の解釈はできそうにない。レオニーはペンを取って、眉をしかめ、首を振り、しゃべりながら書いた。書き出しをいくつもやり直す。
『お手当てを付けて、囲うつもりがあるとかないとか? 結婚したほうが節約になるとかどうとか?』
 卿は首を振り続けた。ペンに手を伸ばしもしない。
『じゃ、デレクがどういうつもりかって、別に本人から聞いたことじゃないわけ?』
「まあそう」
『何度も訊いた質問だけど、あなた本当に、何がしたくて割り込んで来たの?』
「さてなあ」
 パタンとペンが放り出され、卿はあたふたと受け止めた。
「衝撃には弱いんだ、投げんでくれ」
 見るとインクの飛沫は紙の上を走り、木の調理台にも点々と青い染みが散っている。
「インク染みにはワックスだっけ、石灰だっけ、もう!」
 レオニーは椅子を蹴って立ち、棚から溶剤をかき集めた。卿がキッシュの皿を避難させる。
 磨き剤をどさどさとぶちまけ、レオニーが力任せに擦る隣で、卿は申し開きをさせてくれというように、片手をふわふわさせながら書いた。
「多分あやつの態度のせいなんだ。ホテルの電話室からすたこら逃げ出すところを見かけたんだが、何というか、一瞬にして陰謀気分にさせられたのさ。しょうもない雑誌小説の影響かもしらん。善良な市民が悪辣な組織につけ狙われたりするというと、大抵序章にいる誰かが黒幕で、ホラ、物置部屋に積んどるあれな」
 いたずらに染みを広げながらレオニーは横目で読み、ペンをつかんだ。
『知ってます』
「おや、英語が読めたかね」
『米国雑誌の嘆かわしい低俗さについてなら、雑貨屋の奥さんが教えてくれますから』
「ほお」
『あんなくず誌を購読するより先に、きちんとツケを払うべきだそうですよ』
「んんっ、まだツケが効くのはそのせいか。ああいうものを買う小銭はあると思ってくれたのだな。ありゃあ社主が好意で送って寄こすんだよ。出版事業を始めるときに、業界に少し口を利いてやったのでね」
 書きながらペラペラとよくしゃべる卿は、筆記を身振りで補おうとするので、ながら仕事では見落としがありそうだ。レオニーはインク染みを諦め、どっかと座った。
『それだけにしては、熱心にお読みのようですが』
「いや、初めのうちはあそこも意欲的な編集をしとったんだ。だが近頃は稿料を抑えるようになってなあ。本物の作家は居つかず、全部アメリカ語の若造さ。言うことが可愛らしいんだ。悪ぶってはみせるが、まるで子供がお昼寝で見た怖い夢、笑ってしまうよ。誰だって食べていかなきゃならんのだろうが」
 レオニーはゆらりとのけぞって体を支えた。
「夫婦してあんな雑誌を肴に、何をキャッキャ盛り上がってるのかと思ったら……悪口か」
「まあ楽しくこき下ろしとるうちに、いつの間にか毒されとったんだから世話はない」
 卿は上機嫌に書き終え、レオニーは力なくペンを受けた。よろよろと書く。
『陰謀気分を奥さまも共有しておいでなのは確かですか? もしかしてそこも直感だのみ?』
「いやいや。我ら夫婦、序章の黒幕として謀略の打ち合わせに抜かりはないぞ」
『じゃ、デレクには、奥さまが言い聞かせてくださってると?』
「おそらく、一足飛びに婚礼の計画をまくしたてとるだろうね。露見に至る過程には一切触れず。あの子にはそういうのが効くんだ」
『丸め込まれちゃうのね。自分の意見がないのかしら』
「あっても引っ込めちまうのさ。バーナビーだから」
『意味分かりませんけど』
「あーつまり、親に負い目があるのだろうよ。八百長競馬でヘタを打ったのがこたえとる。まあ金策としては悪くなかったが、ロンドンにいられなくなるのでは、失うものが大きすぎたわい」
「八百長、ってあの八百長? ヤクザ者なんかが胴元をやる?」
 男たちがわめき散らす草競馬を思い浮かべたレオニーは、こともなげに肩をすくめるバーナビー卿を畏怖のまなざしで見た。
「話に乗って来そうなジョッキーを見つくろうのがデレクの役目だったがね。人の懐具合を量るのは得意だから」
「……」
 レオニーはそろそろと書いた。
『聞いていたよりずっと難しいお家みたいで』
 そっとペンを返す。平然と口にされていた「競馬のゴタゴタ」にそんな意味があったとすると、普段の会話にもどんな裏が含まれているか知れない。
「頼むよ、もー」
 卿は必死の形相で用箋に取りすがった。
『この通りはるばる追放されたからは、きっぱり足を洗えり。あとひと押しで愚息も勤め人なれば』
「勤め人?」
『美術館職員の口あり。八百長参入を口外せずにやったかつてのヤクザ仲間が、恩義に感じて寄こした要らぬ世話。形ばかり受け、がっつくことはせなんだが、富豪の娘をもらう見込みもついえたこの上は』
「おっとっと」
「塗りつぶしたって駄目よ。もう読みました」
 レオニーはいかめしく言って顔を近づけ、二本の指で両目を示した。卿は小さくなってペンを置き、レオニーは盛大にため息を吐いた。
「最初から素直にぶっちゃけなさいっての。何が心配ってつまるところそれでしょう。ずいぶん遠回りしてくれちゃって」
 散らかった用箋をズラリと示す。暮らしの先行きが立たない不安なら、レオニーにも分かった。そのへんは皆同じだ。旦那さまだろうが泥棒だろうがヤクザだろうが。
 ペンを取り、手の中で軽くもてあそんでから、レオニーは書いた。
『こういうのはどう。余計な茶々を控えてくれたら、彼をまともな勤め人にしてあげる』
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