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トゥルーブルーロジック(6)

「庶民感覚と言えば。サムシング・ボロウは雑貨屋さんでもいいわね。とても朗らかで、いい夫婦だもの」
 バーナビー卿夫人は着々とサムシング・フォーを進行させていた。サムシング・ボロウは、何かひとつ借りたもの。夫婦ものの隣人からハンカチやアクセサリーを借り、幸せにあやかる。
 デレクは両腕を頭の後ろで組んだ。
「さて。ツケでいっぱいの不良顧客に、このうえ何か貸してくれますかね」
「もちろん支払いはきれいにしていきますよ。ダイヤはまだあるのだし」
 ポケットの包みを気にして身をこわばらせている息子のほうを見もせずに、夫人は肩をすくめた。
「これからはずいぶん出費も抑えられるでしょう。もうビクビクと蓄えておくこともないのではなくて」
 集合フラットは全館暖房だし、市街ならトロリーがあるしと、夫人は都会暮らしの利点を数え上げている。
 デレクはいちいちまぜっかえそうと試みたが、悔しいことにどれも母親の言うとおりなのだった。
 現在の住まいは、使われなくなった毛皮の交易所だ。旧式の暖房などあちこちガタは来ているものの、鉄道が通る前、湖上水運の中心地だった時代の名残りをとどめ、そこそこの構えをしている。厳冬期に信用できない自動車より馬車の方が頼りにされている大時代な田舎なればこそ、これくらいの邸宅を持つことは可能だったが、トロントのような大都会で「旦那さま」の体裁を保ち続けるのは難しくなるだろう。予算を聞いて安いほうの生地を勧めてきた仕立て屋にするように、デレクは静かに誇りを引っ込めた。
「事務員にふさわしい暮らしとなると、そうなりますね」
「事務員」
 どうしてそんな風に呼ぶのか分からない、という顔をして、バーナビー卿夫人は息子をたしなめた。
「美術館づとめは品があってきちんとした人のやる職業ですよ。その、美術的だし」
「どうかな。使い走りをやらされるに決まってますよ。どれを買うべきか分からない成金に付き添ってオークションに行ったり、『触らないで!』って叫びながら団体客を誘導したり」
 こりゃ楽しそうだ。デレクは小さく頭を振った。脅かすようなことを言って母親の楽観に釘を刺したいのだが、生来のユーモアセンスに邪魔される。
 愚痴をこぼしつつ軽妙洒脱でいようとするのが、バーナビー家のやり方だった。そもそも大枚はたいた宝石を素直に自慢せず、「えらい散財だ、サイフがストームクラウド」と騒いでみせた祖先からしてひねくれていたのだろう。
 血ではなく、順応によってその伝統を受け継いだバーナビー卿夫人が、楽しげに指を折った。
「で、サムシング・ブルー。これはもう青リボンつきのガーターあたりで手を打ちましょ。一般的なところで」
「はいはい。プロポーズの返事ももらわないうちに式の打ち合わせをしてる僕らは、全くもって一般的じゃありませんがね」
 バーナビー卿夫人は唇をちょっとつむって表情を作り、これがバーナビーとして真っ当な対処法であると主張した。
 電話を引いていない自宅の様子を、今夜のうちに知ることはできないのだ。だったらサムシング・フォーでも数えて過ごしたほうが心楽しい。そして「冗談に決まってる」という態度を十分に取っておけば、期待が裏切られたときも慌てずに済むというもの。夫人はますます念入りに考え込んでみせた。
「お金はもう一切がドル立てね。外套の袖やなんかからひょっこり六ペンス玉(※花嫁の靴に入れて幸福を願う)が出てくるといいんだけど。代用するならどれになるの、五セント、十セント?」
「十進法でも十二進法でも、スーでもペニヒでもご自由に。彼女が靴を渡せばね」
 歌うように言ってから、デレクは耐えられなくなってがばりと立った。
「あの言っておきますけどね。実際のとこ、僕らは……僕と彼女は……互いに腹の底から忠誠を誓い合ったというのでは、まだないんですからね」
 夫人は「あら」と言いながら、どぎまぎとクッションのへりをいじった。核心に触れるようなことをズバリ言われるのには慣れていない。
「でも、ある程度は、その、確信があるのでしょ。違うの?」
「そりゃまあ、ええと」
 息子のほうも調子が狂っていて、歩きかけたりまた座ったりし始める。右へ左へうろうろする姿を、バーナビー卿夫人は目で追った。
「てきぱきとなさい。事務員でしょう」
「あは、はは」
 デレクは子供みたいに目をつぶって笑い、助け舟に敬意を表した。
 さんざん威勢のいいことを聞かされていた息子の相手が結局メイド。そんながっかりする成り行きに、真っ向からがっかりさせられていたくない。そんな母親の気持ちが、デレクには分かりすぎるほど分かった。ここまで通じ合ってしまったら、もうはぐらかし合う以外には落ち着けない。牛飼い同士ならではの苦労だなと、デレクはもう一度小さく笑った。
 漁師とならうまくやれると言ったって、思い違いが重なるときなどは相当に厄介だ。しかしレオニーとは、意思を伝えようと二人で協力する羽目になるところがよかった。
 カタコトの断片をありったけ、並べてはより分けしているうちに、ふと互いの表情がほころぶ。判明したところをつなぎ合わせ、身振りで反応を見て、もどかしい「そうじゃなくて」を頼りにあと少しまなざしを探れば、自分への好意に行き当たるはず、そんな馬鹿げた自信を深め出したのは、一体いつの頃からだったか……。
 デレクはぼんやりと炎を見つめながら腰を下ろした。
「あの子はまあ、僕のことを好きなんだと思うんです。あれ、どうだろう。よく分からない……ですね」
 驚きの事態に、バーナビー卿夫人はどんな表情も作れずにいた。
 高慢ちきで、うわべばかりでウソつきで……、よくいる富豪の令嬢のように、滑らかな社交辞令と冗談口で身を鎧っていたはずのデレクが、内心を無防備にさらしたまま取り繕いもしない。なぜかこれこそ最高の冗談のように思えて、バーナビー卿夫人はひくひくする頬を懸命に抑えた。
「一般的に言って、デレク。分からないのが普通よ」
 震える声にはかえって率直な愛情があふれ、デレクは照れくさげに背中を向けた。


 湖畔のバーナビー邸では、一般的でない話し合いが、互いに一歩も退かない構えのまま佳境を迎えていた。
 関わりのある単語はあらかた協議を終え、大体の札が場に出揃っている。前に書いたものを指さして使える便利に双方が慣れ始め、書くのとしゃべるのが同じスピードに釣り合おうとしていた。
 レオニーは片手を腰に当て、文面をトントン叩きながらまくしたてた。
「何が我慢ならないって、こうしてあなたがしゃしゃり出てきたことよ。放っとくとあたしが何もかも持ち逃げするとこだったって、言わんばかりじゃない」
「そうでないと誰が言える?」
 言いながら卿はペンに飛びつき、口から出たままの勢いが死なないうちにと書きつけた。
 レオニーもすぐさま応じた。
「誰にも言えませんとも。あなたにだってね。道理にかなった待遇をいただけりゃ、あたしだってそれなりの忠誠を尽くすわよ。他に行き場もないんだもの」
「ははん、行き場があれば? もっとよい条件であんたを引き受ける誰かが出てくれば? 条件次第で変わってしまう、そんな忠誠なら、初めから引っ込めておくがいいよ」
「何よ。色々あって心変わりするなんて、どんなカップルにだってあることじゃない。結婚してたって」
「熱が冷めりゃ結婚してたって囲われ者だって同じ? ロンドンの女優じゃあるまいし。そういう気ままを、許すわけにはいかんと言っとる」
「言っときますけどあたし、デレクには最初から色目を使われていたんですからね」
「そんな気はしとったよ」
「気づいてた、奥さまも? あらそう、意っ地の悪い夫婦!」
「台所をウロチョロして、お決まりのごまかしやら隠し立てやら、そりゃピンと来るさ。わしに言わせりゃ」
「いつもの手口ってわけね。お得意の」
「見ちゃおれん。考えなしにもほどがあるというのだ」
「それ、もっと早いうちに言ってやるべきだったんじゃないの」
「少しは賢くなっておるものと思っとったのさ。ところがあれは結局のとこ、雇い人との距離の取りようってものを分かっとらん。そりゃ余裕のあるときは、はしっこいメイドと間抜けな旦那の定型を楽しむぐらいよかろうよ。だが家庭の労働者は、あやつの専門とは扱いが違う。オペラ歌手だの女優だの、自分の世話は自分でできる女と同じに行くものでないというのにあのぼんくらは……」
「ちょっと、ちょっと待って」
 レオニーは演説と筆記、ふたつの奔流を押しとどめた。ぐんぐん調子を上げていた卿のペンは、さらに数語を走り残して止まった。
「どうしてさっきからちょいちょい女優が出てくるの、ええと」
 さかのぼって指でたどる。ぼんくらが好んだのは、ロンドンの女優にオペラ歌手。家庭の労働者は専門外。
「じゃ、台所をうろつくいつもの手口って誰の手口。あとメイドとの恋愛ゲームがやけに弁護されてる気がするのよね……」
 レオニーはまじまじと文面に見入った。
 筆談の都合であちこち所有格が抜け落ちている。行間を読んだつもりで補った部分に、下手な模倣者にイラ立つ先行馬の立場をあてはめてみると……。間違いない。女性遍歴の場数を誇るメンツには、バーナビー卿自身が含まれている。
「雇い人とこそこそする人種って、あなただったわけ?」
 レオニーは両手で顔をはさみ、へなへなと卓に寄りかかった。
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