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トゥルーブルーロジック(5)

「何かひとつ……、何かひとつ青いもの」
 バーナビー卿夫人は、暖炉の熱を顔に受けながら呟いた。
 ホテルの談話室は閑散としていた。本当におしゃべりがしたい人間は、もっと洒落ていて金の要るバーフロアへ繰り出す。一日中ウィングチェアでうとうとしていた年寄り連中も自室へ引き上げた夕食後の大暖炉は、彼女と息子とで占領できていた。
 火は盛大に燃えているものの、炉床の世話はぞんざいで、灰が隅に押しやられている。火影を受けて一層暗い灰の山は、大ぶりなダイヤモンドの奥に立ち込める、冷たい青灰色を思わせた。
 夫人はうっとりと繰り返した。
「サムシング・ブルー。バーナビーではずっと、あれがそうだったのよ」
「古い家宝だから、サムシング・オールドでもあるでしょう」
 デレクが言った。足載せ台にひょいとまたがり、指折り数え始める。
「もう他人のものだから、借りてサムシング・ボロウにもできるし、新しい形にカットされたから、サムシング・ニューでもありますね」
「デレク。意味が重なるからって兼用させてしまったら、それって一体サムシング・フォーかしら?」
 反語の意味で夫人は語尾を強めたが、本気でたしなめているのではなかった。調子よく並べた「サムシング」が節を整え、舞曲のように巡り始める。
 何かひとつ古いもの、何かひとつ新しいもの、何かひとつ借りたもの、何かひとつ青いもの。身に付けると花嫁に幸せをもたらすとされている、四つの何か(サムシング・フォー)。
 ささやかな縁起かつぎに願いを託した若い日には思いもしなかった変転を経て、バーナビー卿夫人の幸運は指のあいだをすり抜けた。そのことで愚痴を言いたいわけではなかったが、「アフリカの鉱山からの出物でして」などまことしやかな逸話を添えて披露された青ダイヤに、当たり障りのないお上手を言うしかなかった客分としては、終始飲み込んでいた「うちのサムシング・ブルー」が、喉のあたりでムズムズした。
 客室にこもって呟くのでは物足りない。大声でできる話でもない。公共の場所で「王様の耳はロバの耳」をやれるギリギリの妥協点が、この談話室なのだった。
「腕のいい職人が削ってくれたようでしたね」
 デレクはのんびりと言いながら火かき棒を取った。ならした灰に縦長の輪を描く。銀鎖のフリンジをなびかせて、ペンダントトップを丸く描き入れる。くるみ大の石は、よく光が入る、現代的なカットを施されていた。
「そうね。きっと長く大事にしてもらえるわ。泣く泣く手放した子馬のことみたいに言うけど」
 首飾りににょっきりと馬の首が描き足され、夫人はくすくす笑った。
 派手に輝く主石は、記憶にあるよりカラリと青かった。しかしふとした角度で影が変わると、煙るようなグレーが石全体を覆った。「どの闇商人から買いました?」と尋ねることはしなくても、バーナビーの者の目には、あの青灰色が何より確かに来歴を語った。間違いなくストームクラウドだった。
「伝来の宝飾品は、オールドとみなすことのほうが多いようね。私のときは母のレースをオールドにしたわ。あら、こういうことは娘の母親がやりたがるものよね。あの子、親御さんはいるの? つまり、連絡は取れるのかしら?」
 子馬より速く駆け去る話題を追って、デレクは目をパチパチさせた。
「まあ、どこかにはいるでしょう」
 投げっぱなしで言いやめた息子に、夫人は手振りで詳細を求めた。デレクはやれやれと立ち上がった。
「家族はフランスにいて音信不通だと、本人は言ってましたけどね。あれは大西洋を渡ってきたのじゃない。一度かまをかけたんですが、大陸間航船のことを何も知らなかった」
「意地悪だこと」
 どうにもバツが悪くてデレクは背中を向けた。密かに憤然とする。かまでもかけて手がかりを探ろうというのなら、まだ人がましいところがあるというものだ。かまもかけないうちから何もかも分かってしまうというのは、ほとんど魔術の領域じゃないか。
 日中のあれこれを思い返せば、電話ブースにいるところを見られたような気はしていた。にしたって、ひとりこっそり乗り込んだ汽車で父親に出っくわし、いきなり客車から蹴り出され、呆然としながらホテルへ戻ると、万事飲み込んでいるという顔の母親がいるなんて、誰が考えるだろうか。まるで立て続けに陰謀に巻き込まれる、安手のスパイ小説だ。この分だと、すべての黒幕は初めから誰も疑わなかった人物……、一体誰だ。実の両親がすでに裏切っているというのに。
 芝居がかってみて気持ちが落ち着き、デレクは短く息をついた。裏切り者の母親が、ぽんとクッションを叩いた。
「何ですよ。ニヤニヤして」
「いえ。ダイヤの出自も、かまをかければ崩れたかなってね」
 ストームクラウドの新たな持ち主は、アフリカ渡りの線を譲らなかった。ダイヤモンド鉱山につてがあるとハッタリを言いたいのか、単に来歴をごまかして売りつけられたのか、いずれにせよ聞いていてハラハラする手柄話になりそうだった。マネキン代わりに呼ばれた令嬢が首飾りを付けてみせ、「せっかくだから正装で」という夕食の誘いも受けたが、デレクは「たまたま都合が悪くて」と残念がってやることもせず、事務的に断った。
 そのときは、至極おさまりかえって息子の判断を支持したバーナビー卿夫人だったが、今は疑問があるようだった。どうかまをかけるか、という話だ。
「何をどうほのめかすというの? 純粋に手段についてだけど」
「ふむ」
 デレクは宙をにらんで手持ちの情報を精査した。
「確かその近辺は内戦で人足が入れなくて、どの掘削坑も稼働してないんじゃなかったでしたっけ、とか?」
 夫人は批判的に片手を払った。
「そう詳しいところを見せるのはかえって分が悪いわ。だいぶ損をかぶられたんですな、なんて同情されるのが落ちよ。我が家の投資が行きづまった過程を、わざわざ披露してやることもないでしょう」
 当てこすりと腹芸の専門家が言うことなので、デレクは素直に受け入れた。
 ぶらぶらと歩いていくと、マントルピースに地図が掛けられている。カナダ西部開発で身を立てたホテルオーナーの趣味なのか、探険家が辿った初期開拓ルートが線で示してあった。
「アフリカのあのあたりでも、新しい鉱脈が開拓されているのかもしれませんね。案外彼氏の話が本当かもしれない。あれはストームクラウドなんかじゃなく、僕らの思い込みに過ぎなかった」
「サムシング・ニューね。あの大きさの原石が出て、ロンドンでニュースにならずにいるとは思えないけれど。私のときはサテンの手袋だったわ。レオニーは何がいいかしら」
 三段飛ばしで移っていく夫人の興味は、再び花嫁のサムシングに戻った。新生活を象徴させるサムシング・ニューは、何か新調したもの。結婚衣裳の一部として使える手袋や上靴など、白いものがよいとされる。
 デレクは投げやりに肩をすくめた。
「エプロン?」
「……もうひとつね」
 冗談としての評価が下され、割と本気で言っていたデレクは、どすんとウィングチェアに腰を落とした。メイドだからエプロン。どこかいけませんかね。
 サテンの白手袋というと本来夜会の正装で、そういうものが合いそうなのはレオニーではなく、例えば新興ホテル王の令嬢だった。
 豪華な宝石をつまらなそうに当ててみせた姿を、デレクは思い返した。金をかけられ洗練された、上等のマネキンではあったが、それ以上の期待は持てそうになかった。しとやかで型どおりで面白味がなく、そもそもこちらに向けて面白いことを言ってくれる気がないというあたり、言葉を選ばずに言えば、好みじゃなかった。実のところクレアに似ていた。
 記憶の中のクレア・モウブリーは十五歳で、歳も違うし顔かたちも通じるところはないはずだった。だがとりすました会話の中で、微妙な距離を作ってくる呼吸が似ていた。「愛想よくしてやるのはここまで、ここから先は、あんたなんかに足を踏み入れさせない領域がありますことよ」と、自分ひとりのモノローグを呟いている手合いだ。英語が通じる相手なのに考えていることは結局分からない、そんなのは御免だとデレクは思った。内緒の思惑を洗いざらい、魔術のように把握されてしまうのだって困りものだけれども。
「デレク。訊いているのよ」
「え、はい、何でした?」
 デレクは椅子から伸び上がった。間の抜けた笑みにバーナビー卿夫人が呆れ顔を返す。
「レオニーは教会じゃなく、書類手続きで済ませたがるかしらって訊いたの」
「フランス人はよくそうするって話ですね」
 何の参考にもならない返事で、夫人は片手をばさりと振った。
「私は嫌ですよ。介添え人も招待客もなしで済ますのだから、せめて儀式めいたことをしましょうよ。フランスと言えば、あの子カトリック? 村の教会について来るのを嫌がらなかったけど」
「息抜きのおしゃべりができりゃ、どこでもよかったんじゃないかな」
 村にひとつしかない教会はスコットランド系長老派だった。しかし信徒連が大らかな人々で、イングランド国教会信徒であるバーナビー一家も、熱狂的なお題目の唱和などはそっと遠慮しつつ、会衆席に座らせてもらっていた。献金皿が回されないすみっこには、大陸系カトリックらしき人々もいたはずだ。酒の匂いをさせない限り、それぞれの事情を抱えた流れ者を進んで受け入れ、目の届くところに置こうという土地柄らしい。
「私だって構いませんよ。カトリックでもメソジストでも。細かい違いにこだわるのをやめると、何だか気持ちがさばさばするわね」
 バーナビー卿夫人はそう言ってうーんと爪先を伸ばした。デレクは座り直しながら首をかしげた。
「あれえ。何の資格もない人が典礼を気軽に入れ替えるのにはぎょっとさせられるとか何とか、おっしゃっていませんでしたっけ」
 夫人は負けじとすましてみせた。
「お互いに譲り合うってこと。この辺境じゃ、通える距離に必ず自派の教会があるという具合にはいかないのですもの。クリスチャン同士で何派だの何主義だの、言い出したら切りがないわ」
「よく知っている者同士ほど喧嘩のタネはあるものですよ。言うじゃないですか。漁師と牛飼いは争わないが、牛飼いと牛飼いは、孫子の代まで喧嘩する」
「あら、それってつまり孫子の代まで同じ村に住んでいるのよ。平和じゃないの」
「……格言ってのは、聞く人の数だけ解釈があるもんだ」
 デレクはくすくす笑って頬杖をついた。
 安心して喧嘩ができるのは、互いに古い馴染み同士だからだ。共有する歴史が何もない移民の集まりでそれをやれば、旧世界の宗教対立史を一からなぞる血みどろの争いになるだけだろう。新世界コミュニティにおける譲り合いは衝突を上手に避ける好ましい解決法だったが、似たもの同士の陰湿な付き合いが、ときどき無性に懐かしくもあった。大洋を挟んで遠く隔たったかつての喧嘩仲間を、母親も懐かしく思い返すのかもしれない。不甲斐ない息子で身代を立て直してやれず、こんな場所まで連れてきてしまった。デレクは少しの罪悪感とともに、牛飼い連盟からはぐれた孤独をにわかに感じた。
 バーナビー卿夫人がどこか斜め上方を見つめた。
「ま、トロントの市街ならどの宗派でも揃っているわね」
 ずる、と椅子に沈み込まないようデレクは足を踏ん張った。教会云々の話はここへ収束するわけだ。うっかり感傷に浸っている場合ではなかった。
 謀略図によれば、かねてからデレクが臨時の仕事を請け負っていた博物館の、常勤の職が当てにされているらしかった。
 そのために辺境の田舎家は引き払い、トロント市街で安い住まいを探す。汽車で華麗なだまし討ちを見せた父親も、その点すでに承認済みだという。
 トロントに部屋を借り、レオニーをこっそり住まわせる、という自分のぼんやりした心積もりが見透かされていたようで、デレクにはそれが何とも気恥ずかしいのだった。しょせん発想の幅はこの程度だろうと言われているみたいだ。実際その通りなので一層困る。
 ロイヤルオンタリオ博物館はまだ開館したばかりで、デレクのような目利きの助言を取り入れ、所蔵品の充実をはかっているところだった。豪壮な外観にふさわしくトロント観光の目玉となれば、常勤の職員も多く求められるだろう。だがデレクは、ごみごみした都会で勤め人になるという考えにどうも馴染めなかった。「そこまで金に困っていない」と思ってしまう。ダイヤを売ればいいのだもの。デレクはポケットの中の包みをそっと探った。
 貸し金庫に寄り道したのが間違いだったかもしれない。バラ色の期待にふわふわと浮かれ歩いていたせいで、年寄りの尾行を許し、駅で見事に追いつかれてしまったのだ。
「……お父さんは大丈夫かな」
 呟くと、夫人がさてねと肩をすくめた。デレクは書き物机の新聞の束から一部引き抜いた。フランス語だ。
「筆談ができるなんて、知らなかったですよ。書棚にはフランス語の本もあったけど、まさか読めたなんて」
「格好つけで並べてるだけと思ってた?」
「ああいうものって大抵そうでしょう。フランス語に堪能な人みたいに、普段の話の中で引用するでもなかったし」
「発音できないのだから、引用のしようもなかったのでしょ」
「そんなカタコトで大丈夫かなあ」
「ロマン派の出番だって張り切っていたわ。ロマンチックな文句だったら当人同士が言えばいいのにとは思うけど」
 デレクは「いやいや」と言って眉間をこすった。
「ロマン派隆盛当時とは用法が変わってるんですよ。もとは公式ラテン語でない俗語で書かれたもの、というほどの意味で、フランス語でロマンと言えば主に通俗小説なんかを指すし」
「そうなの。それなら意味が通るわね」
「そうですか?」
 語の意味を正しただけのつもりでいるデレクはぽかんとしたが、母親のほうは確信ありげに指を振った。
「これからは特権階級じゃなく庶民感覚でということでしょう? 全くあの人の言うことは、一旦間を置かないと分からない」
 そこまで深読みしてあげられるだけでもすごいよ。デレクは苦笑しつつ、ウィングチェアの袖に身を沈めた。
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