HOME
トゥルーブルーロジック(4)

 ストーブの中で、火の粉が爆ぜた。
 ようやくレオニーはペンを取った。『結婚』に丸をしてシュッと線を引っぱる。先は矢印にした。
 矢印の先には辞書があった。
『英仏、語源同じくする単語なれば、字義確認の要なし』
 卿は自信たっぷりに書いてから、辞書を肘で押しやった。レオニーは新しい紙を取った。
『綴りか成句か、とにかく何かを勘違いしてらっしゃいます。でなければ、洒落か冗談に失敗なさった』
『では確認しよう。そなたにとって、結婚なる語の定義とは?』
『洒落や冗談で使うには不向き』
 卿はニヤニヤしながら腕を組み、文面に見入っている。レオニーは辞書をつかんでドンと置いた。
『再定義、他の単語もなさいますか』
 前の紙をひっぱり出す。『ヒゲにクリーム』、『探りまわる』、『盗難物』など、どっさりある泥棒キーワードを丸で囲んだ。
「人を思い切り泥棒呼ばわりしといて、何が申し込みよ」
 バーナビー卿は涼しい顔でペンを取った。
『すべて結婚により再定義される。メイドなれば泥棒、妻なれば、それはやりくり』
「ふざけてるのね、分かった」
「何ともくすぐりの効かん娘だ」
 それぞれに母国語をわめき、両手を振り立てた。レオニーは投げ出すように上へ、バーナビー卿はなだめる手つきで下へ。ペンが紙の上を転がった。
「真面目な話はできないってわけ? 泥棒メイドなんかと?」
「皮肉ばかりじゃもたんよ。こういうことは世間じゃ常にからかいの種なんだ」
「何かに引っ掛けてうまいこと言いたいだけなんでしょう。絶対そう」
「世間より先にこっちからふざけてやるのさ。卑屈になるにはわしら、材料が揃いすぎとるもの」
 レオニーはやれやれと頭を振った。間合いだけは会話らしいが、単語ひとつ分からない。
「雑音だらけの電話のほうがまだ通りがいいわよ」
「ひどいな」
 レオニーがぎょっとして向き直ると、卿はインクまみれの万年筆をつまみ上げた。ぽたぽたと滴が垂れている。
「ちょっと転がしただけでこうだ」
 卿はぶつぶつ言いながら、紙を使って丁寧にぬぐい始めた。レオニーは試しに英語で言った。
「短く大事のことだけ言って、冗談はなし。どうぞ?」
 卿はチラと目を上げ、自由すぎる用法に不快の念を示してから、ぱくりと口を開けた。慎重に言葉を吟味する。
「つまりあれはーひとりーぼっちなんだ。そばにいてやってーくれんかね」
 センテンスは短くなったが、本来饒舌な人がとことん言いよどむので結局聞き取りづらい。レオニーは表情でやはり頼みはペンだと伝えた。卿は手早くペン首を調整し、もどかしげに仏文を綴った。
『愚息は文無し、泥棒も寄りつかぬこの先は、ただ孤独を深めるばかり』
「文無しですって? よく言う」
 レオニーはすらりとペンを奪った。
『優雅にお暮らしですよ。庶民からすれば』
 卿はチチッと舌を鳴らした。
『費用額面の多寡でなく、日々毎々に実収あるかの問題。その日暮らしの貧民も、言い換えればその日その日に新たな実入りあるということ』
「まあ言い換えりゃそうだけど」
『元本を徒に切り崩す我ら、己が足を食らうに似たり。日々生ずる利息配当あればこそmon seigneur』
「モンセニエル(主イエス)?」
 どれも大文字に見えてレオニーは十字を切った。卿は「違う違う」と言ってふんぞり返った。空想上のヒゲをひねってみせる。ちょいちょいと指図するのが、いかにも人をアゴで使う態度だ。
「あ、my lord(旦那さま)を直訳したわけね」
 レオニーは了解したと一瞥を返した。バーナビー卿はよしよしと拳を固め、またペンを走らせる。
『我ら最早いずれの所領資産のseigneur(封建領主)にもあらず。雇い人を意のままに動かす資力尽きたり』
「なんか……冗談口を封じるとあなたって、お金の愚痴しか言わなくなるのね。て言うより、お金の愚痴を冗談で紛らわしてたのか」
 レオニーは首を振り振り書いた。
『だからって結婚が解決になりますか?』
『食い詰め一家に嫁ぐはお嫌? 庶民よりは優雅と申したばかり』
『言葉のあや、ご機嫌とりです、旦那さまへの。まだ雇い人ですから』
 ふーん、とうなって卿はせかせかと書いた。
『こちらも言葉のあや、結婚は解決にあらず、破産者の自衛策。美人の雇い人に去られ、商店へのツケいよいよかさめば、世間がどう取るか』
「そりゃきっと、虎の子を持ってかれたなって思うわね。そしてあなたも思っているわけね。ぼんくら息子をたぶらかして、あたしがごっそり持ってくハラだって……、あ」
 レオニーはがばと乗り出し、数行前をなぞった。
「文無しに寄りつかない泥棒って……、これあたしか」
 卿はのぞきこんで口元をすぼめ、宴会の献立を指示するように走り書きを添えた。
『泥棒は、獲物なくば去る。ごますりの銀行屋、出資が欲しい事業家、手元不如意の親戚』
「あら、泥棒の再定義をどうも。けどひとつお忘れよ」
 ペンを取ったレオニーが「嗅ぎまわるメイド」を付け足すと、卿はほっほっほ、とのけぞって笑った。
「ちょっとは否定して。せめて礼儀で」
「調子が出てきたな。こちらも参るぞ」
 卿はペンをひらめかせ、波打つイタリックで書いた。
『泥棒に人気のあるうちが、不労所得階級にとっては華である』
「……うまい格言が決まったからどうだっての。刺繍して額にでも入れますか」
 レオニーはむっつりと文面を眺め渡した。綴りの誤りがほとんどない。
「俗な話になると流暢ね。フランス語はもっとこう、愛の歌とか夢見る詩とかで勉強なさいよ」
 顔を上げると期待いっぱいの卿と目が合う。レオニーはガリガリと書いた。
『ご立派なお家柄、とてもつとまりません。泥棒階級あがりには』
 ペンがつっ返される。卿はチラと文面を見比べた。
「しおらしいんだか毒づいとるんだか、どうも……。やり方を変えるか」
『お家柄なるもの、ほとほとうんざり。上流人士の交際は、常に品定めの応酬なり。互いに蹴落とさんとして、または良縁を求めて』
「上流だって。お高くとまっちゃって」
「言いたいことがあるようだ」
 卿がペンを差し出し、レオニーは望むところよと受け取った。
『良縁結構。どんな品定めも、軽々と合格なさるでしょう。例の抗いがたい魅力で』
『然り。トロント市内に住まいし折は、好ましき婿候補と見られ、招待状は春の雨のごとく、いずこへ出かけてもすぐさま尋問、下調べ。学校の席次から、かかりつけの歯科医に至るまで』
「引く手あまたでよかったことね。そのせいじゃないの、奴さんの自惚れが手に負えなくなったのは」
 上目でチラとだけ見て、卿はさらに書いた。
『良家ほど、その程度はなはだしき。見目よき息女あれば尚さら、出自怪しからん山師にはやるまいぞとて、服より落ちる糸くずも見逃さぬ張り切りよう。また人脈豊かにて、広く情報集まる。聞き込みし悪評を注進に及ぶ輩も、少なからず』
「ふうん。脛に傷持つ身ってわけ」
「脛に傷持つ身というわけだ」
『それで、こんな田舎に?』
 卿はしみじみとうなずいた。
『都会を離れれば紳士の交友も限られ、愚息の友人も興味といえばゴルフのスコアのみ』
「平和が一番ねえ。暇すぎてメイドにちょっかい出したくもなるわね」
『モントリオールのホテル王に一女あり、妙齢の美人と判明せり。愚息は帰宅を画策』
 レオニーの耳に雑音混じりの声が響いた。電話口のデレクは、駄々っ子みたいに「とにかく帰る」の一点張りだった。
「さぞ、ひと目で縮み上がるほどのご令嬢だったんでしょうね。面接ぐらい受けてみりゃよかったのに」
 ブツブツ言っとるがそれを書かんのかというまなざしに肩をすくめ、レオニーは書いた。
『上流同士のほうがいいってこともありますよ』
『牛飼いは牛飼いと喧嘩する。牛飼いと漁師なら、うまくいく』
「私は漁師?」
 レオニーは書かずに指で「漁師」を押さえ、片手を胸に当てた。笑って首をかしげるという万国共通の仕草で、卿は直答を避けた。
「そりゃメイド相手が気楽よね。しかも言葉が通じないときた」
 ひとり言に妙な調子がついて、レオニーは苦笑した。次第に節回しが整い始めている卿の語調に、ついつられてしまうのだ。座りなおして戯れ歌調を振り払い、ペンを構える。
『思っておられるような漁師かどうか。私のことを何もご存知ないのに』
『家族はフランス、両親とは音信不通と聞くが?』
 身上書にレオニー自身が書いたことだが、「はい、事実に相違ございません」と答えたのでは、まるで感化院の取調べだ。レオニーはじっと紙をにらんでからペンを走らせた。
『嘘です。年二回仕送りをしています。私の産んだ子を預けていますので』
 目だけでさっと読んだバーナビー卿は、表情を変えないよう努めている人の顔を保ってペンを要求した。
『男か女か?』
『息子です』
『爵位継承権を錯綜させうる問題であるので、当人を呼び寄せるもしくは弁護士を頼んで、書類を作成する必要が』
 横から紙が引っぱられ、インク文字がくにゃくにゃと歪んだ。ペンもレオニーが奪っていく。
『嘘です。作り話です。未婚の母はむかし相部屋をした女友達です』
『同じくメイドか?』
『電話局の交換手。話を戻しませんか』
『本意である。子がいるなどと、なにゆえ嘘を?』
『諦めてくださるかと』
『そうまで愚息を嫌うのであろうか』
 そうまで驚くことでしょうか。レオニーは勢いのまま書きかけてやめた。あまりぴしゃりとやり返すと、また機転を賞賛されてしまう。この手でこれまで数々のメイドたちが毒気を抜かれ、いいように首を切られてきたはずだった。それぞれの不品行に見合ったお手当てと、次の勤め先を世話されたであろう彼女らと違い、レオニーは中でも一番安く上がる方法を取られているような気がしてならなかった。
 結局何も書かず、万年筆はバーナビー卿が引き取った。
『情熱冷め果てたりといえども、火にかければ蘇る』
 パチパチと瞬きしていると、卿が肘でチョイとキッシュの皿を押した。すっかり冷めた食事のことだと分かり、からかわれていることも分かって、レオニーは勢いをつけて立った。
 皿が下げられ、卿は成功した冗談に満足の息をついてから、またせっせと書いた。
『乏しき財政を知りたるのちも去らざりしは、そなたにも幾ばくかの気持ちあればこそと期待した。余の思い違いであろうか』
「分かりません……、分かりません」
『愚息はすでに何がしかの贈与を約しおろうか?』
 レオニーはストーブの前に立ち、力なく首を振り続けた。
『天晴れ身持ち堅きそなた、没落旦那のわずかな小銭を、色仕掛けにて引き出すを潔しとせず』
 紳士的泥棒精神を保った、みたいに褒められても困る。何しろダイヤの存在を知ったのがつい先週で、すぐに旅行準備が忙しくなった。ひとりきりのメイドは毎日くたくた、色仕掛けに割く暇がなかっただけなのだ。
 レオニーは食べかけの切れ端をナイフですくった。ストーブの上の大皿にペタンと落とす。皿には、切り分けた残りがまだたくさんあった。
 大皿にたっぷり作るじゃがいものキッシュは、デレクの好物だ。今日この日にどうしてデレクの好きなものを作って待っていたかといえば、それは単にじゃがいもが安いからで、深い意味などない。食費の限られたバーナビー家では豆と芋が交互に食卓にのぼるのだから、当たりを引くのは簡単だ。そしてデレクは豆のスープも結構お代わりする。
「ちょっと……、待って」
 レオニーはよろよろと椅子を探って座った。
 紹介状のために慎ましく振舞えば、卿の勝手な花嫁扱いが止まらないし、かといって「じっくり焦らして巻き上げるつもりだったのさ」とでも居直ったら、そのまま警察を呼ばれてもおかしくない。いや、このツギハギ詩人の手にかかれば、そんな拒絶さえドラマチック寄りに字面を整えられてしまうかも。
 保身の方向が全く分からなかった。一家の留守中、洗濯屋仕事を手伝いながら、オグデンの女房には「あの手の人種の言うこたあまともに取らないがいいよ」とさんざん言われたものだが、まさかこういう意味ではなかったろう。
 レオニーは落ち着きなく立ち、温まった一切れを皿に移した。さっき使った皿でなく、きれいな新しいほうに載せてしまったと気づき、手が止まる。皿を二人ぶん用意していたわけで、当然デレクと食卓を共にするつもりでいたのだ。
 色仕掛けに突入する成り行きであれば、拒む気はなかった。ぼんくら若さまが「好機到来」とやってくるなら、その好機をこちらも利用してやればいい。ただあまりにも筋書きがあからさまで、いくつも職場を転々とした「脛に傷持つ身」としては、警戒を解ける段階ではなかった。近所の目ほどあとあと厄介の種になるものはないのだ。
 滞在費の代わりに洗濯屋仕事を手伝うという約束だったにもかかわらず、大量のアイロンかけを終えると、オグデンの女房は働きぶんの賃金を払うと言って譲らなかった。そして言った。
『のっぴきならない事んなったら、頼れるのはちょっとした蓄えだよ。あんたみたいのは気をつけな。ほら、こう……』
 レオニーの質素な身なりを上から下まで眺め、「男の気を引こうってんでチャラついてると」が言えないと踏んだおかみさんは、「その気もないのに男がまとわりついてくんだよね」に切り替えた。賃金の返礼に打ち明け話を期待されているのは分かったが、ガッチリ固太りのおかみさんに「あたしの若い頃そっくりだ」と言われては、その気も失せた。
 とにかく、手元に現金があった。まだどこへでも行ける。旦那さまの調子のいい冗談口に乗せられて、そのまま溝にひっくり返るようなことになる前に、河岸を変えてしまえということなのだと、レオニーには思えた。
 キッシュの皿を改めて給仕した。ちょうど書き終えた卿が、ホイと紙を手渡した。
『金回りよき時代は終われり。雇い人との交渉に、殿さまのやりようは最早通じず』
「また言ったわね。金はない」
 ドンと床を蹴った。泥棒メイドにも誇りというものがある。
「その前置きがなきゃ話ができないわけ?」
 レオニーは憤然とペンを取った。
『サイフに余裕がないときは、妻にしちゃえば安く済む。これあなたの意見? デレクも同意?』
 端折った言い回しに、また辞書や二重線が動員された。ごちゃごちゃの書き込みをひとつひとつ刈り揃え、晴れて注釈整った一文を読み下し、卿はニヤリと笑った。
「予防線を張るのをやめたな。これで話ができる」
HOME