HOME    (注)本作は「ムーンライトマーマレード」続編です。
トゥルーブルーロジック(1)

『やあ……レオニー、レオニー?』
「はい」
 しばらくは「聞こえるか」、「聞こえます」というやり取りになった。
『まだホテルだ。こっちは……』
「何? なあに?」
 レオニーは、ラッパ型の通話管をしっかりと耳に当てた。
 モントリオールからの市外通話はこすりつけるような雑音の彼方だ。
『まだホテルにいる。ジェスーええと、オンコーアロテル』
 レオニーは目を閉じて神経を集中させた。
「ホテルなのね。あの、もっとはっきりしゃべって」
『了解。雑音がひどいね。ルッテリーブル、ブイー』
「ルッテ……? あ分かった」
 謎の音節の正体は、フランス語の断片だった。レオニーは壁の電話機に指を振ってみせた。
「どっちかにして。英語かフランス語」
『心得ました。当方は英語が得意です。フランス語は雑音並み。ザッ、キークキー』
 最後のは、今鳴った本物の雑音をそっくり真似たものだ。あえておどけないプロの芸人のような真面目くさった顔を思い浮かべ、レオニーは笑みをもらした。
『そこにいる? レオニー』
「います」
『ああ、無音のときは無音ですと言ってくれ』
「無理です」
『いいぞ。しゃべり続けて。キングストンあたりで誰かが線を踏んだかと思ったよ。雑音が賑やかだと逆に安心ってのは、長距離回線の不条理だね』
 デレクのご機嫌と言葉遊びの難易度が上がった、ということだけ理解し、レオニーは手のひらを上向けた。
「雑音は距離じゃなくて機械のせい、電話機がいけないの」
『へえ? こっちの電話は最新型、つやつやで滑らかで手ごろな聖像みたいだよ。ヘタな聖母子像より人々の声を聞いてくれそうだ』
 耳が拾う単語を少し遅れて理解したレオニーは、思わず声に出した。
「マリアさま?」
『おっと、不敬な意味じゃない。新しい電話機がきれいだって話。郵便局設置のはまだあれだろう、醜い木箱で、ハンドルをくるくる回すやつ』
「あの、そうだけど、違うの」
 レオニーは、電話機相手にありったけの身振りを回転させた。
 目の前にあるのは確かにハンドルを備えた旧型だが、雑音は新型機のせいだ。ハンドルを回す代わりに受話器のフックを上げ下げしてオンオフを知らせる新方式は、回線にかかる電圧が高く、電線がブツブツと文句を言っているのだ。
 という長い話を、レオニーは大胆に英訳した。
「電話機と線が、合ってないのよ」
『そうなのかい? あー、交換手! 線をしっかり差し込んでくれたまえ! そのほうが盗み聞きもしやすいよ』
 冗談の気分を共有したというしるしに、レオニーは小さく声をたてた。
『今笑ったの君? それとも回線の誰か?』
「私。けどそうじゃなくて、線は」
 新型機の説明に取り掛かるべきかどうか、レオニーが迷っていると、デレクがあとを引き取った。
『もちろん交換手は人格高潔だから、盗み聞きなんかしないさ。誉むべきわが村の交換手は、穀物秤(ばかり)の前で袋詰めのごまかしを監視してる? それとも郵便カウンターで、荷物ひものかけ方を知らない蛮族を教化中?』
「早口ね。ええと」
 交換手の居どころを聞かれたのは分かったので、レオニーは「郵便局」と答えた。
 都会に比べて仕事の少ない地方交換台は、大抵が商店や郵便局に併設されている。交換手は接客や家事など、よそごとの片手間に回線をつないだ。
 レオニーが今いる共用電話ブースからは見えないが、食器戸棚ほどの小さな交換機はおそらく空席だ。交換手兼窓口係である女が、カウンターでこうわめいているからだ。
「これは藁づとのくくり方。十字結びでなけりゃ困るんですよ。郵便配送中にすっかり緩んじまう」
 気弱そうな農夫は大人しく小包を引っ込め、ラッパ管の中でデレクが笑った。
『やっぱり! 誰かガミガミ言われてる……』
「やっぱり?」
『……そう言や……は、……ったよね』
 息の長い雑音が居座るあいだもデレクはしゃべり続けていて、レオニーは送話管にすがりついた。
「アロー(もしもし)? 何て言ったの?」
『こう言った。呼び出しは、直接だったよね』
「はい」
 これはつまり「誰も盗み聞きしていない」という意味になる。集落を丸ごとつないだ地域共同回線には、交換手よりも手ごわい立ち聞き屋がいた。ご近所連中だ。
 モントリオール局からリレーを受けた地方交換手は、まず共同回線上のすべての電話機をジリンと鳴らし、「モントリオールから誰々さんへお電話です」と呼びかける。ラッパを耳に当てて黙っていれば、交わされる会話を誰でも丸々聞くことができた。
 点在する農場に人々が離れて暮らす田舎では、おしゃべりは重要な娯楽だった。安価な共同回線ならさほど裕福でなくとも電話が引ける。農夫たちは数世帯ごとにまとまって回線に加入し、皆でおしゃべりを楽しんだ。機会に恵まれれば、他人のおしゃべりまで。
 集まった共同回線は、村の交換台で相互接続されていた。都市部からのリレーを受けるのがここだが、交換台兼務の郵便局兼雑貨屋店内にいたレオニーは「ちょいとー、バーナビーさまからよ」と口頭で呼び出され、そのまま電話を取ったので、通話は今のところ誰の興味も惹かずに済んでいるのだ。
『奇跡と言っていいね。冬の農閑期の回線を、盗み聞きなく使えるなんて。もちろんズラリ居並ぶ長距離交換手までは追い払えないが。まあこの際どこの誰とも知れない女の耳は勘定に入れずにおこう』
 雑音の途切れる機会をとらえてしゃべるデレクはますます早口になっていて、レオニーは必死にあとを追った。
「大丈夫、中継局は心配いらないわ。だってあの人たちはビジー(忙しい)」
『ビジー(話し中)は僕らだよ。早いとこビジーネス(用件もしくは回線の占有状態)を済まそうか』
「ふふ」
 親切な強調につい反応してしまってから、レオニーは口をとがらせた。冗談の間合いを壊してまで説明するほどのことでもないが、言おうとしたのは、殺人的な接続ノルマを課されている都会の交換手が、のんびり会話に聞き入っているわけはない、ということだった。
 こと電話というものに関する限り、デレクの叩く軽口は基本的に嗅ぎ回り屋への嫌悪だった。買収された交換手が何かしたとかで、イギリスでは嫌な経験があったらしい。競馬の予想だか何だか知らないが、大事な相談にそもそも電話を使うべきじゃないのだと、レオニーは思った。秘密の用なら顔を合わせて処理するに限る。
 通話管の奥で雑音がキンときしんだ。
『昼の汽車で帰ることになったんだ。家を暖めておいてくれ。台所のストーブと、二階は東だけでいい』
「帰る? 東?」
 無骨な田舎家を仕切ったバーナビー家の二階は、東側がデレク、南がバーナビー卿夫妻の寝室になる。一家のモントリオール旅行中、レオニーは村の洗濯屋に寝泊りしていて家は無人だったから、どの部屋も冷え切っていることだろう。
「南は要らない?」
『そう。東の部屋だけ。意味は……分かる?』
 両親より一足早く、デレクだけが帰宅すると言っているわけで、言いつけた仕事を理解したかという意味であれば答えはイエスだが、ある種の申し出を受けるかという意味にも取れた。
「東は、分かる……、分かるけど、つまり私が言うのは」
 言いよどんでいるうちにすっかりフランス語になってしまった。この程度なら何とか伝わりはするが、レオニーはいつも母語のほうがかえって言葉に詰まった。
 語彙の少ないデレクは、何かにつけ言い回しの意味を確認したがる。手っ取り早い口真似やおふざけに逃げられないレオニーは、自分の本音ばかりが引き出されるようで落ち着かないのだった。ヘタな英語を笑われているほうが気が楽、しかしあまり通じないのも不便。フランス語か、英語か……。用心深い沈黙が落ちて、雑音も鳴りを潜めた一瞬、完全な無音になる。
『ハロー(もしもし)? そこにいるよね?』
「アロー、います」
『切れたかと思った。改めてアロー(こんにちは)、マドモアゼル』
 冗談口の煙幕は、いつでも「そんな意味じゃないよ」と逃げることだってできそうで、顔をつき合わせていればもう少し判断がつくのにと、レオニーはもどかしく首を振った。
『首を振ってるね? 電話なのに』
 からかう声は緊張をほぐそうとしている。緊張するだけの理由があるというほうに賭け、レオニーは送話管に顔を寄せた。
「前に言ったでしょう、私は」
『うん。覚えてる』
「そう」
 少ない言葉で会話が一往復したことに驚いて、レオニーは短く息を吐いた。何語であれ、「ベッドへは行かない」という了承された線引きを、通電状態の悪い電話口でがなりたてるわけにはいかない。
 電話ブースの半扉からのぞくと、村の郵便局、交換台、雑貨屋洗濯屋を諸々ひっくるめた店内はしんと静かで、それぞれの業務を「店主の女房」の肩書きひとつで兼務する働き者の女は、まだカウンターにいた。好奇心丸出しで交換機に張り付く手合いとは違いますという顔で、すまして何かを読んでいる。
 あれが、定期購読者に郵送されてきたのを横から「ちょっと確かめる」習慣のパルプ雑誌であれば、しばらくは安全だ。だが罠にかかった主人公が、怪しい女の誘惑を余計な機転で退け次第、回線使用の状態を「ちょっと確かめる」義務感が、彼女を交換台に戻してしまうだろう。
『とにかく帰る。オグデンに迎えを頼んでおいて。なんなら君は今夜も洗濯屋さんに泊まったらいい。じゃあね』
 追っ手に脅えるスリラーものの主人公のように用件だけをまくしたて、電話は切れた。
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