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ムーンライトマーマレード(1)

「誰だ」
 声が暗闇を裂いた。空気が、紙に貼りつけられたように動かなくなった。
 私は背を向けたまま凍りついていた。
「銃を持ってるぞ」
 声の主は調理場の床をそろそろと確かめながら、一歩ずつ近づいてきた。
 私は相手をこれ以上怖がらせないよう、ゆっくりと振り返りはじめた。乗っている三段の踏み台は天板があまり広くないので、慎重に足を踏み変える。
 押し殺すように、小さく息を吐く気配がした。
「あんたは、幽霊か?」
「違うわ」
 ささやき返すと男のシルエットが、武器をかまえていた片手をぶらりと下ろした。
「そうとも。違うと分かったから聞けるんだ、こんなこと」
 影の中にいる私の手元に、ひとすじの月光が届いていた。光を浴びたガラス瓶には、中身と日付を書いた大きなラベルが貼ってある。
 ななめの月光の向こう側、同じく暗闇に沈んだままの相手に向かって、自家製マーマレードのラベルだけが、白々と差しつけられていた。
「なんだってこんな時間にマーマレードなんだ?」
 男がつかつかと月あかりの中に入った。まだ緊張の残る顔が私を見上げる。栗鼠(りす)のようなくるりとした目が、パチパチとまばたきした。
…… そんなにマーマレードがお好きだったんですか、クレアさま」
「ピーター」
 私は瓶をぎゅうっと抱きしめるついでに肩をすくめた。
「声が震えてたわよ。本当に幽霊を見た気でいた?」
 パパの秘書のピーターは、こわばった笑顔で拳銃を振った。
「物音がしたから、泥棒かと思って見に来たんですがね」
 パパの拳銃は、ビリヤード室の鍵のかかっていない引き出しにごろんと入れてある。誰でも取り出せるが、弾は別にしてあるので中身はからっぽだ。
「白い誰かがぼうっと立ってるもんだから、正直ゾッとしましたよ。浮かんでるみたいに見えた」
「つまみ食いの浮遊霊?」
「はは」
 声を出してピーターが笑い、私も体の力を抜いた。本物の銃を持った本物の侵入者かと、さっきは心底ちぢみあがったのだ。心臓がやっとまともに動きだした。
 私がすとんと一段おりると、踏み台ががたついて揺れた。
「そいつは泥棒より始末が悪いな」
 肘を支えられながら三段おりてピーターと並ぶと、私の鼻先は彼のあごのあたり。私は十五歳にしてはのっぽなほうで、ピーターは大人の中ではわりと小柄だ。
 キスのできる距離よ。相手からでも、自分からでも。
 階段を一段のぼってみたうえで男の子とおしゃべりしたとかいう先進的なクラスメイトが、そう形容していた。彼となら段差は必要ないにしてもおしゃべりの種がなくて、私はまた肩をすくめた。
「ちょっと眠れなくて」
「朝食用マーマレードをくすねたりしたら、ミセス・ギールグッドに大目玉をくらうんじゃないですか?」
 コックのミセス・ギールグッド特製のマーマレードはしっかりした苦味がトーストによく合う、わが家のお気に入りだ。こんな開け放しの調味料棚ではなく鍵のかかる食料庫に一年ぶんの作り置きがしまってあって、鍵はミセス・ギールグッドが管理している。
「盗みからは足を洗ったわ」
「ほう?」
「昔のことよ」
 昔話ならおしゃべりの種として無難だろう。「人の気をそらさない会話術、社交の手引き」未婚女性編によれば。
「小さい頃は、食料庫のスキを狙う私と守るミセス・ギールグッド、大変な攻防戦だったのよ」
 まだピーターがうちに来る前のことだ。
「とうとう食料庫に鍵をつけられて、それでも根性をみせたわ。壁をよじのぼって外から入ろうとしたの。ツタに隠れて見えないけど、換気用の小窓があるのよ」
「かなり高いところにあるでしょう。換気用なら」
「途中で怖くなって、おりちゃった。斜めにしか開かない小さい窓だから、カギもないのよ。あと少しで入れたわ」
 未婚女性の会話としては武勇がすぎたけど、ピーターはくっくと笑った。
「残念でしたね …… で今日の獲物は?」
 私は瓶をちょっと上げてみせた。
「こっちの瓶は、甘いほうなの。苦いのが得意じゃないお客さま用で、たまに料理に使ったりするだけだから、少しくらい減りが早くても気づかれない」
「へえ」
 ピーターがラベルをのぞきこむ。
 おっと、キスのできる距離。
 私は知らん顔で一歩さがり、ピーターは戸棚をぐるりと見渡した。
「じゃ次は、クラッカーかビスコットの残りでも捜索しますか」
「ううん、あの」
 私はすでにスプーンを握っていた。
「そのまま?」
 ピーターが眉をひそめる。
「そうよ。甘くておいしいの」
「うへえ」
 私は瓶にスプーンを突っ込んだ。大きくすくって引き出すと、月あかりに輝くかたまりが、ぼたりと瓶に落ちた。
「また、うへえ」
 慎重な山盛りにすくい直したのだ。顰蹙もろとも、私はぱくっとひと口で収めた。
「よくやるんですか?」
 つるりとスプーンを引きぬけば、口の中は幸せでいっぱいだ。
「ふぉうよ。ちゃんとスプーンも洗っておくの」
 今キスしたら、きっとマーマレード味がする。
 空想の中の相手は“うへえ”と言って顔をしかめた。
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