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クエイサ尼僧長の教会日誌(1)
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 クエイサ尼僧長が裏庭に足を踏み入れたとき、子供の細い肩がびくんと跳ねた。
「あー。クエイサさま」
「お出しなさい」
 尼僧長はずいと片手を出した。
 子供には焚き火の番を言いつけてあっただけで、火のほうは問題なく燃えている。しかし目を見れば隠し事をしていると分かるのだ。
……
 子供はのろのろと懐を探った。差し出したのは、よく砥いではあるものの粗末なつくりの小刀と、それを使って切り取ったらしき色刷りページの一枚。
 尼僧長は目じりを怒らせ、いずれもまとめて取り上げた。
「これらは皆、信徒が“捨てる”と言って教会に差し出したものですよ。ひとつも地上に残してはなりません」
 焚き火のそばには革装丁の聖典から質素な護符にいたるまで、雑多な品が積み上げてあった。さまざまな階層の人々から改宗のしるしとして受け取ったものである。急に入信の儀式がたてこんだのだ。
 十分の一税の象徴として受け取った着衣の切れ端は、はぎれとして教会で使うが、旧宗派に関わる品々は全くの不用品だ。まあその場でごみの中に置いてくるわけにもいかないので、こうして教会に持ち帰っての焼却処分となる。
「ごめんなさい …… この図柄がとてもきれいで」
「まったく」
 改宗者には貴族もいる。きらびやかな持ち物に悪心をそそられるのは子供ばかりとは限らない。いかにもきらきらしい品があれば尼僧長自ら処分するようにしているのだが、今回そのようなものはなかったはずだ。カルサレスの民はみな揃って虚栄とは無縁の、素朴な人々だった。
「ふむ」
 尼僧長はページを手に取ってかざした。
 ページいっぱいを使った円形の図柄は二色づかいで、さして豪華な彩色でもない。しかし植物の蔓(つる)がうねうねと伸び、不思議な動物や目や手などのモチーフと複雑に絡み合った奇妙な連続模様は、強く目に訴えかける迫力を持っていた。
「確かに手の込んだ図柄ね」
「でしょう? あの、縁取り模様のお手本にしてもいいでしょうか」
 子供は手先が器用だったので、教会の工房で彫刻師の見習いをさせている。寝食も忘れ、あらゆる木切れに嬉々として意匠を彫りつけていると、世話役の尼僧がこぼしていた。少しは雑用も手伝いなさいと、尼僧長が火の番を言いつけたのだ。
「こんな模様を見たの、初めてです」
 子供は焚き火にあてられたうえ、さらなる興奮で顔を真っ赤にしている。
「お待ちなさいな。このページはどの本から切り取ったの?」
 安易に意匠を拝借して、そこに込められた意味合いが教義に反するものだったのでは困る。
「もう燃してしまった?」
「いいえ」
 子供は小さな冊子を手渡した。
「ああ、ふん」
 粗相をしたかと子供がすくみ上がるほど、尼僧長は厳しく表紙をにらみつけた。馬具臭いこの本にはどれより見覚えがあるのだ。
「あの若さまの持ち物ね」
 尼僧長はむっすりと冊子を開いた。問題のページは宗教的な文言が並ぶ前の、平原で暮らす喜びについて書かれた詩篇のような箇所にあった。
「ではこれは、卿の紋章になるのかしら?」
 尼僧長は図柄をもう一度眺めた。
「おや」
 ふいに、幾何学模様の一部と思われた円周部分から、ある記号が浮かび上がった気がした。
「これは …… 文字かしら?」
 ためしに、表音文字として発音してみる。
「ダーム、イレ …… イル?」
「どこですか? 僕には分からなかった」
 子供がのぞきこむ。
「今の文字とは違う古代文字ですよ。それもところどころ模様と溶け合ってしまってる」
「ではこれはそんなに古い本なのですか? 古代の?」
 子供が目を輝かせた。
「バカおっしゃい。古びた品ではあるけれど、この紙の具合なら本のほうは作られてせいぜい数十年といったところです」
 尼僧長は切り取られたページの周辺をパラパラとめくった。
「この図柄自体はきっと昔から伝えられていたものだったのね。聖典を作るたびに同じものを写させていたのでしょう。写しの写し、とやっているうちに文字が文字として認識されず、他の部分と混ざってしまったのだわ」
 尼僧長はあらためて図柄を検分した。今度は頭の隅に文字の形を意識しつつ、慎重に眺める。
「おわりの、時代、偉大な …… ?」
 単語自体も今の言葉とはまるで違う。しかし古い時代の抒情詩によく見られる語形に、似たものがあった。断片ばかりで文章にはなりそうもない。だが慣用句的な品詞を手がかりに語順を取っかえ引っかえするうち、大きな円周に沿って、じわりと意味が立ち現れはじめた。
 ――― 偉大な父祖の時代、のおわり、敵から逃れ、平原に根を、名を変え、なお忘るな、カーサル大王。
「あらま」
 尼僧長は目を丸くした。
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