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カルサレス卿の獄中記(23)
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「ネグトレン、あと」
 あれはどうなった、と言い終わる前に、伝わったのが分かった。
「山の行商人は、帳簿なんてシャレたものつけやしません」
「そうか」
 思考を先回りされるのはいつものことだが、ワインのお代わりが要るか要らないかまで見事に察してくれる給仕には、うんと褒美をはずむべきだろう。
「良いホラ話だったぞ、ネグトレン」
「お褒めに預かり、きょうえつしごくー」
「もうちょっとシャンと言え」
 私たちは怠け者の農夫みたいに、菜園の柵に並んで肘をついた。
 あたりはほとんど薄暮の中に溶けていたが、菜園は最後まで陽が当たる場所だ。私は西日を背に受け、暖かさの名残りを楽しんだ。
「この中庭ともお別れか」
 名残りを惜しむ暇があってよかった。隊長が本陣に駆け込むまでにはまだ数日かかるだろう。
「クエイサどのは大丈夫かな? あれだけ護衛を雇ったのだから、帰路も不安はなかろうが」
 ネグトレンはどうするのだろう。私たちと平原に来るつもりがあるのだろうか。
 まともに訊(たず)ねるのは少々照れくさいのだ。どのように切り出したものか。
「実はネグトレン、帰りの山越えがまた心配なのだが、明日お前に道案内を ……
 私がもごもごと言いかけると、ネグトレンは「おっと」と言って起き直った。
「明日は日が昇る前に発って、北へ向かいますぜ」
「北? なぜ」
「一番近い砦が、まずは北にある」
 私はぽかんと見つめ返した。夕日が斜めに射し込んで、ネグトレンの瞳がぴかりと光る。
「明るいうちに回れるだけ、プノールンプルンの砦を順繰りにやっつけて行きましょうや」
「やっつけ …… 戦をしかけるということか? 兵を挙げると?」
「せっかくこれだけの兵士が手に入ったんですぜ。毒をくらわば皿まで」
 その毒も皿も、クエイサ尼僧長のものだ。雇ったのは教会であって私ではない。
  ――― と、言いたいのだがまたもや口がぱくぱくするばかりだ。ネグトレンは得々とうなずいている。
「伝道教会の勢力範囲を回れば、プノールンプルンの向こうを張る兵力くらいすぐに集まりましょう。ええ、やすやすと」
「しかし、クエイサどのが承諾しないぞ。新たな戦乱の種をまくなど」
 やっとしゃべれるようになりそれだけ言ったが、
「若」
 振り返ればベレンツバイの姫はえらく肝の据わった顔をしていた。この表情も、私は苦手だ。
「クエイサさまには先ほど私がお願いに上がりました」
「姫が?」
 あの視線にひとりで立ち向かったというのか。さすがだ。私は恐ろしくてこのように中庭に逃げている。
 一段落してから入信の儀式が途中だと言い出す者がいて、ひとまず魂を返していただけと、尼僧長のところに連れて行かれたのだ。
 私を前にすると尼僧長は新たな怒りが沸き起こって来るらしく、儀式のあいだじゅう、ぐつぐつと煮えたぎるような視線にさらされた。仕上げにお守りを首にかけてもらったのだが、そのまま絞め殺されそうで気が気ではなかった。
「カルサレス平原をあげて伝道教会派に改宗すると、クエイサさまに申し上げましたの。若を助けるために大切な教義をねじまげて利用したのですもの」
 私は姫を見つめたが惚れ直していた訳じゃない。頭を整理したいのだ。つまりけっこうな額の寄進を申し出て、受け入れられたということか。
「代わりに兵を貸してくださいと? そんな取り引きに …… あの尼僧どのが乗ったというのですか」
 尼僧長がいかめしくも信仰と金袋を天秤にかけているところを想像してしまった。
「いいえ」
 姫は首を振った。
「巻き添えとは言え、教会の総本山たるクエイサ尼僧長が、兵士の離反に協力した形になりましたわ。このままではプノールンプルン各地の伝道教会信徒が、裏切り者として迫害されてしまいます。信徒たちを救いに行かねばと申し上げたんです」
「救いにというか …… 姫、やはりそれは挙兵ですよ」
「ありゃあ、血筋だな」
 ボソリと言ったのはネグトレンだ。
「何?」
「かつて南に反旗を翻した、祖父(じい)さんの血が騒ぐんですぜ」
 ニヤニヤと笑っている場合か。挙兵だぞ。戦争を主催するのだぞ。
「心配なさらずとも旦那、プノールンプルンじゃ伝道教会は押しも押されもしない主流派、傭兵も三分の一は伝道教会から女房をもらってるって言っても過言でない。城門でクエイサさまと聖キエトさまが呼ばわれば、砦のひとつやふたつ、剣も弓も使わずに落とせまさ」
 突っ走る弁舌をさえぎり、
「その聖キエトをやるのは ……
 おそるおそる言ってはみたが、答えは分かっている。
「そりゃ、旦那にお願いしますよ」
 私はがっくりと柵にすがった。
 大王の末裔を騙(かた)った上に今度は聖人か。私のホラ話は、一体どこまで膨れ上がってしまうのだろう。
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